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ナイチンゲールは果たして人種差別をしていたのか、全然してないのでは?というnote

別にFateの話題じゃないのに画像がFGOのナイチンゲールばかりで申し訳ない気持ち……(自分の作品だと雑に使えるので……)
そもそもナイチンゲールが黒人差別者であるという説を聞くのが初耳な人も多いかもしれませんが、調べるとわりかし出てきます。なかには「19世紀だからそれが当たり前」というような、ナイチンゲールの差別を前提としている書き込みもありました。しかし、それらは皆根拠に乏しい情報です。
ナイチンゲールと黒人差別におけるいろいろな資料を探してみました。

子供向けドラマのデマ

そもそもの「ナイチンゲールは黒人差別主義者」の発端……かは分かりませんが、大きな影響を与えたのはBBCの子供向け教育チャンネル、CBBCにて放送された、「黒人のナイチンゲール」とも言われるもうひとりのクリミア戦争の看護師、メアリ・シーコールのスケッチ・ショー(寸劇のこと、以下ドラマ)の内容でした。この件の問題はBBC自身が取り上げています。
(シーコールは正しくは黒人と白人のハーフ)


本来のシーコールは最初、クリミア戦争に向かう看護団に参加しようと申請を様々な場所に送りましたが、全て却下されてしまい、結局実費で現地に向かうことになります。しかしこのときの看護団とはナイチンゲールの看護団ではなく(彼女たちはすでにスクタリ病棟に到着し働いていた)、実は第二陣でした。この第二陣というのは、イギリス側が独断で決めてスクタリへ送ろうとした追加の支援で、ナイチンゲールはそもそも関わっていません。この第二看護団の人員を決めるのはイギリス国内の機関や人物だけでした。

しかしCBBCのドラマではこのときの展開は大きく違います、ドラマではナイチンゲール本人のいる看護団への参加を希望したシーコールに対して、ナイチンゲールが直接「看護団は英国淑女のためのものです。あなたはジャマイカ出身でしょう。(The nursing corps was for British girls. You're from Jamaica.)」と発言しました。

これこそが、ナイチンゲールが黒人を差別したという風評が広まった大きな要因です。上記の記事は、BBCの内部にある監督機関のBBCトラストがその歴史改ざんを批判しているもので、少なくとも本国においてはこれでこの件は解決したと思われます。(と言いつつ、BBCが出したナイチンゲール伝記でもまたひと悶着あったりしたのですが、それは黒人問題とは関係ないので割愛します)

日本でも匿名掲示板でナイチンゲールの批判があったとき、それに対する反論が上がるようになっているので、ここらへんは徐々に認識が改まってきてるのかなと思います。

その他の日本で見られる差別の逸話

ただ、日本のナイチンゲール批判では「白人優先で治療をして、黒人・アジア人は後回しにしていた」とか「黒人は不潔だとして触りたがらなかった」という批判もあります。ただこれに関してはそもそもの文献が見つからず、SNSや匿名掲示板上でしか見かけません。もしソースをご存知の方がいたらご一報ください。
しかし、仮に白人優先で治療していたとしても、それはナイチンゲールの意思と断言することはできないと思われます。ナイチンゲールはスクタリの病棟ではまず信頼を得ることを第一に考え、常に軍医側の指示に従っていました。これは結局のところ、いざというときに好き勝手やるための布石でもあったわけですが、基本的に医師の指示に従って看護していたならば、白人を優先というのも医師の指示によるのでは?という可能性が出てきます。
「ナイチンゲールが自由に患者を観れるようになった段階で、且つナイチンゲール自身の意思でそうした」と分かる資料がなければ差別の証拠とするのは難しいでしょう。

実際のナイチンゲールのシーコールに対する印象

次に、メアリ・シーコール小伝で語られる内容についてです。

メアリ・シーコール小伝はイギリス王立看護協会(Royal College of Nursing)で刊行された小冊子ですが、上記の論文で内容がまとめられています。(ちなみにシーコールのwikiにも問題の部分がまるっと転載されています。)
この論文内にはシーコールとナイチンゲールが会ったときのお互いの印象について書いてあります。シーコールがナイチンゲールに対して好印象を抱いている一方、ナイチンゲールは以下のように手紙に記していたそうです。

「彼女は、『いかがわしい所(bad house)』とまでは言わないにせよ、何かしらそれに似ていなくもないようなものを、クリミア戦争で維持しています。彼女は男性方に大変親切で、それ以上に役人方に対しても親切で、いくらか彼らのお役に立ち、そして多くの人を酒飲みにしています。」
という記述をしている。ナイティンゲールが人種的な観点にどの程度の影響を受けていたかは明らかではないが、少なくとも、彼女が当時のディケンズの小説に描かれているような「不潔でだらしない」看護師のイメージを変えることを願っていたことはよく知られており、シーコールが時には酒類を施設内で提供していたことには強い抵抗があったようである。
E. N. Anionwu『メアリー・シーコール小伝 : 看護師・学生のためのリソース』より引用

さらに、この論文の下の方の補足には

しかしながら、シーコール自身は施設内で酒類を乱用して酔っぱらったり、ギャンブルをしたりすることは許さなかったと述べており(Seacole, op. cit., p.145)、ナイティンゲールの記述とは矛盾がある。

とあります。これだけでは、ナイチンゲールがシーコールのやり方が気に入らなかったのか、それとも僅かでも人種差別的印象で評価が下がっていたのかはイマイチ分かりません。

まずナイチンゲールの手紙については現状どこで読めるのかまだ分かっていないので、なんとも評価できない状況です。目星はついているのですが、高価で分厚い書籍なので発見には時間がかかりそうです。

ではシーコールの方はどうでしょう。彩流社の「メアリー・シーコール自伝 もう一人のナイチンゲールの戦い」はシーコールが生まれてからクリミア戦争が終わってしばらくまでの半生を口述筆記で語ったもので、これを読むとシーコールが何をしたかがだいたい分かります。
まずシーコールはナイチンゲールと違い、クリミア戦争最前線のバラクラヴァ付近まで行きました。ではそこの軍事病棟に務めたのかというとそうではありません。

「メアリー・シーコールよりのお知らせ──ブリティッシュ・ホテル開業予定について (中略)シーコールはスクリュー船オランダ号に乗り一月二十五日ロンドンを出発し、バラクラヴァに到着予定です。ブリティッシュ・ホテルにおいて傷病者および回復期の兵士のために食事と快適な住居を提供する予定です」  103ページ

このような宣伝カードをクリミア半島に送り、現地へ到着したシーコールは開業届を出し、現地のトルコ人を雇って建物を作り、それをスプリング・ヒルと名付けて経営をしました。看護というよりむしろ料理での商売と交流をメインに捉えていた印象があります。(看護の優先順位が低いというわけではありません。シーコールは当局に拒否されたのだから、自己流のやり方で傷病者のためのホテルを開いたりしてはいけないだろうか。と自伝で綴っています。)
ちなみに、シーコールはクリミア戦争へ向かう前、パナマのクルーセスに滞在してたときもコレラ患者を看病する傍ら、ブリティッシュ・ホテルと名付けた店で食事を振る舞っていました。クリミア半島で店を開いたのはこういった経験からでしょう。

さて、まず酒の扱いについて

また、どんな酩酊も暴飲暴食も、スプリング・ヒルでは極力起こらないように心がけました。実際、アルコールを悪用する目的で買いに来る人がいると、販売はおおむね断ったのですが、それが元で不愉快なことがいくつか生じたことがありました。私はスプリング・ヒルの客すべての良心に訴えました、男性客の酩酊も将校仲間のギャンブルもここでは許可しないのでその旨了解してほしい、と。  183ページより

これを見るとたしかに酒飲みが増えることを良しとしてないように見えます。一方、その後のページを見てみると以下のようなことが書いてあり、少なくとも酒の販売を減らしているわけではないことが伺い知れます。

間もなく暑い気候になるだろうと予想し、多量のラズベリー・ビネガーを用意して蓄えました。これはうまく使うと、快適な飲料を作るのに役立ちました。サンガリー、クラレットやりんご酒は大いに需要がありました。 (中略)スプリング・ヒルで、ディナー・パーティーがときには開催されましたが、後になるともっと頻繁に開かれました。  190ページ
また、一ダース分四十八シリングで調達していたブドウ酒を、彼らは四シリングで買おうと言うのでした。これにはまったく我慢なりませんでしたから、私は発作的に自暴自棄になり、ハンマーを掴み次々に叩き割りました。  241ページ

また、以下のような内容もあります。

バラクラヴァやカディコイのあちこちの店で売られていたラキ(トルコ地方の強い酒)は、命にかかわるような強い酒でした。当局は、酒商人に販売を禁止し違反者には厳罰を以って処することにしていたのですが、ラキは巧みに宿営地に多量に出回りました。  189ページ

もしも婦長がバラクラヴァへ言ってスプリング・ヒル付近の様子を見ていたとしたら、こういった酒によって泥酔していた客を見て勘違いした可能性もありそうです。

「男性方に親切」に関してですが、そもそもシーコールは何人もの将校や医務官らと交流を持ち、それらの協力によってバラクラヴァまでたどり着いた経緯が語られています。
幅広い交友関係を持ち、そういった人たちが援助や客として積極的に店に来ていたことを考えれば、多くの男性客と親しくしているということは当然でしょう。

重要なことは、彼女の店というのは一見してみれば看護施設ではなく飲食店だったということです。もちろん、怪我人が運ばれることはあったし、積極的にシーコールは看護を行っていました(当然店にこもりっきりなわけでもなく、戦場に赴いたりもしています)が、彼女の店は医療施設というわけではなかったので、多くの重傷者は結局のところ軍の病院に運び込まれます。

患者の尽きないスクタリ病棟のなかで、ひたすら看護と病院改革に集中していたナイチンゲールが、回復期~健康体の兵士たちで賑わっているシーコールの店を見れば、看護師としてクリミアへ向かったはずのシーコールの在り方に違和感を感じるのは無理がないように思えます。

オーストラリア先住民族の問題に取り組む

次に、重要な功績があります。ナイチンゲールはクリミア戦争後の医療改革を行っていた時期に、オーストラリアの宣教師サルバド司教による、先住民族アボリジニ(現在では差別的な響きが強いとして使われなくなっている名称ですが、時代的背景を考慮して当時の呼び名で固定します)の健康問題の統計に協力しており、のちに報告書である「Note of the Aboriginal Races of Australia.」が発表されています。こちらは無料で見れますが、残念ながらテキスト化されてないので、翻訳はできませんでした……。

当時のオーストラリアはイギリスの植民地であり、先住民のアボリジニの過疎化、つまり病気や早死が問題になっていました。これについて調査した人たちは、この原因がヨーロッパ人の持ち込んだ病であったり、悪癖(つまりは差別行為・暴力行為?)によるものとした一方で、ナイチンゲールとサルバドは、統計学などを使ったより現実的な解決策を模索し、「アボリジニーは、辛抱強く慎重に扱えば、文明化による滅亡という危険な過程を生き延びれる」という信条を互いに持って調査をしていました。

これについて「Concerning our national honour」という研究論文で詳しく比較、考察されているようなのですが、こちらは残念ながら購入しなければ読めなさそうです。
購入して機械翻訳を通しながら読んだだけなのであまり断定して言うことはできませんが、論文のなかではナイチンゲールの行動に明らかな問題行動はなく、締めの文章では「ナイチンゲールの収集した先住民の福祉に関する証拠の統合は、ほかの善意の入植者のそれと大まかに一致しており、おそらく多くの当時の人より革新的で洞察力に満ちている」と評価されています。

悪質な記事

さて、最後にナイチンゲールの批判記事として以下のサイトを上げておきます。

こちらの記事ではタイトルで堂々と「人種差別主義者」「反フェミニスト」と掲げています。
・CBBCのシーコールとナイチンゲールのデマを真に受けてさも史実であるかのように書いてある。
・ニュージーランドの看護組織の告発を根拠に、ナイチンゲールが看護師は何をおいても男の医師に従う事を優先するという構造化をして以来、ほとんどの女性はほとんどの男性より劣っているとして扱われていると主張。
・オーストラリア植民地政府への指示は、彼女が先住民族の人口減少は、優れたヨーロッパ人に比べて先天的な欠陥があるからだと考えていたことを示していると主張。
こちらに関してはこの記事のコメント欄にて、ナイチンゲール研究の第一人者であるリン・マクドナルドがガチギレの反論を投げかけており、この主張がどれも根拠のない不当な内容であることを指摘しています。

インド改革

それともう一つ、黒人というわけではありませんが、ナイチンゲールの重大な功績として、約30年間にわたってインドの衛生環境を改革してきた実績があります。ナイチンゲール自身はこのときすでに遠出が困難になっていたので、直接現地民の様子を見たわけではありませんので(オーストラリアの改革もそう)根拠としては薄いですが、オーストラリアの件も含めて、肌の色に関わらず積極的に人命を救おうとしたのは確かでしょう。

奴隷反対主義のナイチンゲールの周辺人物

次にナイチンゲールの周辺人物にも注目する必要があります。
まず、ナイチンゲールの祖父、ウィリアム・スミスは奴隷廃止運動の指導者でした。
また彼女と交流を持っていた人物のひとりに、アメリカ合衆国の奴隷制反対活動をしていたハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウがいます。
身近にそういった活動家がいるなかで、少なくとも公に差別するような行動をしてたとは考えづらいです。

当時のイギリスにおける差別の度合い

また、時代背景としてひとつ重要なこととして、イギリスでは確かに黒人差別はありましたが、それは一時期ほど過激ではなかったはずです。
イギリスは1807年に奴隷貿易を違法としてから1834年頃にはすべての奴隷を解放するに至ってます。
シーコール自身旅路のなかで幾度も黒人差別の被害に遭っていましたが、彼女も多くの軍人たちと有効な関係を築けていたのもまた事実です。
そして南北戦争によってアメリカの差別問題が悪化する前でもあったので、必ずしも「当時は黒人差別があって当たり前だった」とはいえないんじゃないかな……と思っています。とはいえ、正直こういった社会的な背景は疎いので、こちらに関してはあまり自信を持って主張はできません。

まとめ

・ナイチンゲールが"黒人看護婦シーコールを差別した"はデマ
・白人を優先して治療したは情報源が不明
・黒人を不潔扱いして触らなかったも情報源が不明
・ナイチンゲールのシーコールへの印象に人種が絡んでいたとは言えない
・オーストラリア先住民族への差別もデマ
・オーストラリアやインドの衛生改革をおこなった実績がある
・ナイチンゲールの周辺人物には奴隷制反対活動家が複数人いた
・当時のイギリスは必ずしも黒人・有色人種が迫害されるほどひどい扱いを受けるとは限らなかった

ということです。もしかしたら差別と言わないまでも、オーストラリア先住民に対する偏見とかならあったかもしれませんが、やはり差別らしい差別はしてなかったように思えます。
ここらへんの話題は日本じゃほとんど取り上げられず、必然的にソースがほぼ全て海外の記事・論文・書籍になってしまうので、確実な情報を得るのには限界がありました。また何か分かったら追記するかもしれません。

記事を読んでくれてありがとうございました。 よろしければご支援いただけると励みになります。