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紙の本の良さについて語ろう。

電子書籍にはない、紙の本の良さについて君に語ろう。

紙の本はインテリアになる。書籍が詰まってぎゅうぎゅうになった本棚を思い浮かべて欲しい。君はその全てを読んでいないとしても、自宅に来た君の友人に見せびらかすことができるだろう。読んだの?と聞かれたら、こう答えよう。

それを聞くのは野暮だよ、君は銀行にある貯金を使い切ってはいないだろう?

このよくわからない回答で煙にまこう。友人がさらに、どういうこと?と聞いてくるような猛者だったら、こう答えてあげよう。さあね、って。それか横文字を並べて説明してあげよう。できるだけペダンティックに。ディレッタントに。わずかなメランコリーを込めて。その一つ一つに対して注釈を求めるような猛者の中の猛者だったら、こう答えるしかない。さあね、って。多分そんな猛者はいないだろう。いたら褒めてあげよう。仮に君が、さあね、と答えることを余儀なくされたとしても、友人は君のことを頭のおかしい奴と思うか、衒学者だと思うだけだろう。それか馬鹿にされたと感じるだろう。でも、安心して欲しい。僕だったら、朝起きて美味しい朝食を取ってコーヒーを飲んで、シャワーを浴びて髪の毛を乾かして着替えをして、これから新しい1日に臨もうとしている場合を除いて、聞かない。だけど友人がいなくなっても僕は知らない。

そもそも家に来る友達がいなかったら(それは残念なことであるが)、本棚の写真をSNSにあげてもいい。洋書があると尚良い。新書や専門書、文庫、単行本など幅広い方が良い。いちいち感想を述べなくても、優しいみんなは読んだのだろう、と思ってくれる。一日一冊は読みますね、とつぶやいてみても良い。言うだけタダだから。誰も君を監視してそれを確かめようとはしない。君がよほど偉そうにメディアに露出している人間でない限り、そんな暇人は出てこないだろう。だから大半の人間は大丈夫である。もちろん一日十冊など、調子に乗りすぎてはいけない。それは薄い本が好きな人の特権であるから決して犯してはいけない。薄い本が大好きなのであれば、何の問題もない。胸を張ろう。

SNSなら双方向のコミュニケーションは希薄だからそれで済むが、問題は実際に読書家を相手にするときである。こんなときはインテリアとして置いていることがバレてしまう。それは仕方がない。頭を垂れて、インテリぶっていることを認めよう。そんな潔さがないなら、本をインテリアにしてはいけない。家に来る友達がいなければ、この心配はいらない(それは残念なことであるが)。

ただし、間違ってもインテリアとして売っている紛い物の本を買ってはいけない。第一、それは読むことができない。僕は一度、分厚いホーソーンのThe scarlet letterを見て二度と行かなくなったバーがある。もし薄いThe scarlet letterがバーにあって、気になって仕方がないとき、そんなときは思い切って注文してみよう。そこの緋文字を、って。取ってくれたら本物である。そのマスターに一生ついていっていいことを僕が請け負う。そしてジントニックを頼んで乾杯しよう。はい?と言われても怯んではいけない。それは試金石だ。君は試されている。もう一度、そこの緋文字を、とはっきりと言おう。怯んだほうが負けである。勇気が出なかったら、そこのジントニックを一気にあおろう。はぁ、そんなものはないです、と言われたら君の勝ちである。ただ、それは君にしかわからない勝ちであって、周りから見たら負けであることを誇りとしなくてはならない。自分の中で勝つだけでなく、周りから見ても勝っていようと思うのは傲慢である。周りから見て敗北者である君は、インテリアなんだなぁ、と思う。それで十分である。ちょうどジントニックも無くなったことだし、お会計して家に帰ろう。

ここまで本のインテリアとしての側面に焦点を当ててきたが、本は手にとって読むためにも存在していることを忘れてはならない。往々にして忘れられてしまうことであるが、決して背表紙を見せるためだけに存在しているのではないのである。開いてみると中にはカブトムシやらミミズやら虫みたいな字がいっぱいあることに気がつくだろう。部屋が虫だらけになってしまう、と君は心配するかもしれないが安心して欲しい。それらは標本であって、正しいページの正しい位置にピンで止められている。専門家になると、たまに間違った虫が止められていることに気づくかもしれない。そしたらその標本箱を作った人に教えてあげよう。数百ページに及ぶ、その虫みたいな文字を見ていると、こんなものを読む輩がいるのかしら、という気になってくるが、それは間違いではない。正しい感覚だから誇って良い。僕は請け負わない。いや、ちょっと請け負う。

紙の本には、ここで述べた以上に、さまざまな良さがある。しかしそのほとんどが蔑ろにされているのである。我々は物体として存在する"もの"の汎用性に今一度気付かねばらなない。データとして存在している本ではこうは行かない。紙の本は鍋敷きにもなる。枕になる。鈍器になる。燃料になる。売れる。汚れる。重い。嵩張る。埃がたまる。もちろんお金があればタブレットを鍋敷きにしても良いが、僕は本をお勧めする。タブレットは滑っていけない。

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