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なんじゃこの違和感は?

毎日、日本語レッスンや体育指導をする中で、毎秒新しい発見があれば、違和感もあります。
ずっと感じていた違和感を解き明かしていくのが本日の日記の目的です。

大学卒業後に中高一貫校でサッカー部専属コーチとして働く経験をしました。マダガスカルへの準備期間が一年あった僕にとってこの上ない環境でのお仕事です。
その時にも今と同様の疑問感を持っていたことを思い出しました。

例えばコーチ、監督、先生が指示したことを選手、生徒、子供たちが正確に実施した時に感じるこの満足感」は必要なのかということです。逆に「指示通りに実施できなかった場合にストレス反応が出ているのはなぜ?!」

自分の中でも消化しきれないこの事態に違和感を持っていました。
そもそも仕事上の指導の目的ってなんですかね?

指導は大きく言えば三つの目的達成をする行為だと考えていました。
一つ目、自分の欲望を満たす。
二つ目、非指導者の目的達成をサポートする。
三つ目、両者の目的を達成する手段。

時に、指導することは目的ではなく、手段だということを忘れてしまいます。そうなる理由としては指導者は”指導”という行為によって対価を得ていると解釈するからでしょう。指導者にとって、”指導”が仕事だからです。
しかし、指導によって成果が出なかった、目的達成が果たされてない場合その行為に意味はあるのでしょうか?

特に学校の体育では運動やスポーツの上達を求めていない子供もいると思っています。その時、僕の考えていた指導の目的の一つ目しか達成されていないことに気づきました。その瞬間僕がしていることは”指導”ではなくなります。僕がしている行為は”命令”になるのです。自分の指示通りに動き服従している他者の存在が達成感になっているのです。

命令は強制力を持ちますが、指導は強制力を持ちません。
ということは、冒頭に僕が書いていた指導時のストレスは、指導を命令と解釈している僕がいることを示しています。

この感情はいいのか、悪いのかで判断することは難しいと思います。
しかし、感情によって引き起こる行為は決して誤ってはいけません。
誤った行為の代表例は「体罰」です。
きっと体罰の正当化する人は指導の解釈が命令と同等のものになっているのでしょう。


僕が感じていた違和感は指導と命令、監督の解釈が正しくなかったことで引き起こっていました。
この解釈を正確に理解したからといって違和感がすぐに解消されることは無いと思います。指導はそれほど簡単なことではないと知りました。
指導経験を通じて「指導」についての理解を深めていきたいと思います。
僕の指導時間は非指導者にとってどの様な時間になるべきか判断を誤ることなく、価値を提供していくことが僕の仕事です。






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