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【自分とは何か】人は特別な存在か

人間の何か特別なのか?

「自分とは何か?」に気づくためには「では自分以外って何?」を理解する必要があります。

ただ、今日は思い切って
 人間と動物の境界
という話に触れ、
最後に「洗脳」についてお話します。

それを知ることは、本当に快適な日常を過ごすのに、
私は必要だと思っています。

みなさんは
「この文字が読めているだけで、実は奇跡だ」
ということを、今日、必ず理解できると思います。

言語能力の獲得とは

私は、長年、育成について考え続けています。
ここでいう育成は、子育て、師弟関係、学校教育、技術訓練、その他人類が個人の生命の限界を超えて伝承できることに関することすべて、を指していて、またその伝承によって世代を重ねるごとに習得効率が上がっていく現象のことそのものも指しています。

難しく説明しましたが、ここからは事例を挙げていきます。

生命の限界を超えて伝承できる、は
言語が、他者の技術、研究などを保存、再現させることができるため、人の一生が仮に平均100年だったとしても、その技術や研究はその年数を超えて継続できる、ということを指します。

習得効率が上がっていく、は
言語は、人間の身体能力とは別のところに保存されているため、抽象化や論理的解析などが可能になり、例えば元々経験則だったものが論理化、体系化することで習得時間が短くなったり、デジタル化によって加速させたりスローにすることで効率よく学習できる、ようなことを指しています。

以上の2点については、それだけで話が長くなるので、ここでは
主題「動物と人間の違い」に絞って話しますが、では、ここでいう
「言語」とは、いったい、なんなのでしょうか?

「動物と人間の違い」というテーマでは数多くの研究や書籍が存在していますが、言語を持つこと自体は、人間以外にも知られているので、言語獲得が人間を他の動物との境界ではない、と結論付けてしまう人も多いようです。

その考えにたどり着いてしまうのは、その人は生物学や社会学の専門家ではあるが、「言語の力」については突き詰めが足りなかったのかもしれません。

もちろん、このnoteでは、中学生くらいでもわかるように話しますので、
ご安心ください。

ここで、「人間が持つ言語能力が、他の動物に比べて特別なのか?」を
確かめる実験を考えてみます。

この実験は、みなさんの頭の中でできます。
皆さんの中でもっとも頭が良さそうな、または言語能力について
「この動物は人間ほど優秀」と思うくらいの動物を思い浮かべてください。

初めに、「その動物にはちょっと不利な条件」から実験をスタートします。
実験の対象となる人間と動物に、人間の言語を習得させよう、
という実験を試みます。
ちょっとくらい、SF的な考えでやってもらって構いません。

どうでしょう?

あなたの想像では、その動物は、2歳児程度までの能力は
行きそうでしょうか?
それとも5歳くらいまで行く?
10歳は?

ここでの実験のポイントは、
「人間以外の動物が言語能力を持ったこと自体」
ではなく、想像していくと、間違いなくその動物は
「人間のように言語能力獲得に積極的でないようだ」
という結論に、みなさんがたどり着くかということです。

では次に、「動物にとって有利な条件」を考えます。
実験は、なるべく公平である必要があります。
そこで、今後は人間のあかちゃんが
「ほかの動物の言語能力を獲得できるか」です。

有名な話では、以下がありますが、重要なのはこれが実話かどうかよりも
コミュニケーション手段として、動物の言語が理解できるのかどうか、
と考えた場合、それくらいはできそうな感じがすると思います。


また、以下のサイトで、数多くの動物の言語について紹介されていますが、
私の考えでは「コミュニケーション手段」に限った言語であれば、「すべての生物はコミュニケーション手段を持っている」と言っても過言ではないでしょう。
というのも、「科学的証明の手段」には限界があって、あることの証明は比較的簡単ですが、「ない」ことを証明するのは「実験が不十分なのではないか?」という理屈で受け入れられない場合がほとんどだからです。


しかしどうでしょう。
どうやら人間以外の動物は「原始的な言語は持っている」ようですが、それ以上の言語能力は持たず、人間のように「成長にともなってレベルを上げる」ということはしていないようです。

今日、お話したいのは「その理由」です。

私たちは言語を何に使っているのか?

人間も動物なので、言語を使う理由は同じである、という主張があっても、私は間違いではないと思っています。

ではその理由は何か?
動物が動物である理由。

それは、植物と違い、
 「体を動かして生きたい」
だと思います。

もし、そんなに高度な言語を持たずに、好きなように生きていけるなら、
基本的に生命は効率的に生き延びようとしますから、人間も他の動物と
同じくらいの言語で十分だったはずです。

その証拠に、ほとんどの動物の言語は
 ・求愛
 ・食料に関する情報
 ・安全に関する情報
のどれかになっています。
それ以外に遊び、怒りなど、2歳前の子供がとれるくらいの
コミュニケーション能力は、多くの動物も持っています。

ではなぜ、人間は
 「それ以上の言語能力」
を持つようになったのでしょうか?
今日は、その理由については触れません。
今日は、
「なぜ我々は言葉にとらわれてしまうのか?」
ということについて、頑張って少しだけお話します。

この社会は言語で出来ている

私が今日、この記事を書くに至ったには、理由があります。
今週は仕事がとても忙しくて、13日だったかな?連続してた
投稿も止まって、noteを各モチベーションも、結構下がっていました。
小説も、全然、進まないし😣

でも、まあやっぱり人のnote見るのは、いろんな意味でモチベーションに
なるんですよね。
で、いろんな記事を見ているなかで、こんな話題がありました。

この話は、私は半年前くらいから知っていましたが、私が着目したのは
この人の視点。

人間が人間らしく生きられるようになったのは、本当につい最近のことなのかもしれない。
(それでもまだまだ不完全だけれど)

noteの素晴らしいところは、見たことも会ったこともない人から、こうした記事投稿の原動力を得られることにありますが、たぶん、この人が言おう
としていることは、私も含めて、まだ多くの人類は完全に理解できないかもしれない。

私はマインドマッパーとして、内なる自分の思考をいかに外に出すか、を考え続けて50年以上生きてきました。

そして、私は

「言語は思考、心そのもの」

の考えを貫き通して生きてきているけど、人って、恐ろしいですね。

「心」

「言語」

と切り離された「外にある」と思っている人はかなり多く、

単なる文字列を見ただけで、
自殺したり無差別殺人をする人がいて、
液晶に映った映像を見ただけで
戦争に反対したり
飢餓に苦しむ人たちに心を痛ませている


これが「言語による洗脳」ということには、気が付いていない人も多い。

あなたは、自分がなぜ文字が読めるのか、考えたことがありますか?

何のために、文字を
「読まされている」
のか?

バリン、イソロイシン、ロイシン、メチオニン、
リジン、フェニルアラニン、トリプトファン、スレニオン、ヒスチジン

このカタカナも知らない人にはなんのこっちゃって思うかもしれませんが、
わかる人にはわかる、皆さんの身体に必要な、必須アミノ酸。
同様に、日本語が読めない人にも、意味はなさない羅列です。

恋人と別れた
いじめがつらい
明日は頑張ろう

この文字を見て心がもやもやするのは、あなたにその経験があるから?
無くても想像できる? なぜ? 漫画? 小説?
あなたにその心の「もやもや」を与えたの物の正体は?

あなたの目に映る文字は、白と黒が織りなす、単なる模様。
赤ちゃんにはそう見えるでしょう。

しかし、あなたにはそう見えない。

なぜか?

私たちは、言葉から想起されるものが周囲の環境によって限定され、
「この文字を見たら、このフレーズを聞いたら、そう思え」
という洗脳を学校教育はもちろん、社会的にされているからです。

誰がこの世界を設計したのか

あなたは、今、服を着ていますか?
それとも、生まれたままの姿で、砂浜の上で生きていることに
喜びを感じていますか?

蛇に騙されてリンゴを食べたのなら、服を着ないと恥ずかしいですよね。

私は、この世界の大半は、
聖書
に書かれたことが元に出来ている、と思っています。
世界の半数は聖書を経典としており、日本人の生活も第2次世界大戦以降は
多くの人が無宗教、つまり聖書の影響を受けています。

なぜ無宗教がイコール聖書の影響、なのか。
無宗教の人は、目に飛び込む事象についての情報は、
種類を問わす本やメディアの影響を受けざる得ません。

特に人間はハロー効果、処理流暢性に逆らうのは難しく、
多くの人が信じていること、わかりやすいことが無意識に入り込みます。
しかし、多くの物語は聖書を発端としており、
多くのビジネスは聖書の教えを守っています。

聖書は、規律の原典のようなもので、私たちが正義だと思っている
ことのほとんども聖書から来ています。

もちろん、それが悪いわけはありません。
たぶん、聖書を最初に考えた人は、
「このままでは人類はお互いに争って滅ぶ」
と考えたのかもしれません。
儒教の経典、四書五経も聖書も、そういう意味では、
社会の為にあるといえるでしょう。
(いずれ、この辺は詳しく触れます)

これからの世界

つまり、動物として、比較的弱いフィジカルの人類は、
生き抜くために、言語を使って、社会を作り、
人々を「同じ方向」に向かわせるために、いつしか
宗教という洗脳を受けるようになった、とも言えます。

そうすると、先ほどの記事は、2000年続いた聖書の時代の
「先」の話をしているのかもしれません。

人々は、今までは、大規模なコミュニティを必要とした。
そのためには、仲間外れになるわけにはいかなくなった。

しかし、科学技術の進歩、特にデジタル技術の進化は
多少の肉体的ハンデや知能のハンデを無効化し、好きな時間に、
好きな場所で、好きな人とだけ関係を持ったり、時には合わなそうな人とも
距離を縮めてみたり、アバターで会話を試みたり・・・

そのうえで、もう一度、記事を眺める。

人間が人間らしく生きられるようになったのは、本当につい最近のことなのかもしれない。
(それでもまだまだ不完全だけれど)

これからはnoteやマッチングアプリで、
 「必ず、私に合う人がいる」
というくらいの気持ちで、生きていける世界なら、
無駄に(社会的に)殺されずに、
もっと気楽に生きられるのかな。

人は、遺伝的に競争したくなる本能がある、という話もあるようだけど。

#2023 /7/12追記
言語に関わる謎について、小説の後半にその一部を語ってます。
逆順に読んでも、それはそれで面白いです(前編は女性側、後編は男性側の視点です)

ではまた。

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