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【広島商人】知られざる戦後復興の立役者(1)予言

ーあらすじー
この文章は昭和31年11月に発行された「広島商人」(久保辰雄著)の冒頭です。(原文のまま、改行、ふりがなを適宜挿入)

広島は原爆が投下された約一か月後に、死者・行方不明者を2000人以上出したという枕崎台風という被災があったことはあまり知られていません。
この書籍は、原爆投下数日前から当日、直後の出来ことが書かれています。
また、その後の枕崎台風の被害で寝床もままならなくなった人々を、著者が県の特命を受けて危険を顧みずに行動し、最終的には商人としての行動とアイディアが多くの人々を救う物語です。

当初は良かれと思って動いた主人公ですが、周囲の妬みや批判を受け、一時は犯罪者扱いされたり、食べ物の配給も不足している時期に家を空け、妻も彼の行動を責めるようになり、果たして自分のしていることはお天道様に恥じないことなのか、その葛藤が描かれています。

この書籍は、現在では古書として探しても手に入らず、電子化もされていません。(出版社の出版権は切れていることを確認済み)
私はこの本に書かれていることは、当時の生活を知る資料としてだけでなく、現在の仕事に対する個人の在り方としても、考えさせられるものがあり、後世に残したいと考えています。

これから、この記録をどう広めていくかは遺族との話し合いを8月に予定していますが、その投資価値がどの程度あるのかを知りたく、一部を無償で公開しますので、ご協力いただける方は感想をコメントにお願いいたします。
検討していること
 ・電子書籍化
 ・動画(紙芝居のような形式)にする
 ・英語化を行う

1  予言

 昭和20年7月4日、私は呉海軍施設部長との約束、急需要品の調達促進をはかる公用を帯びて、朝まだき東京駅へ着いた。
 
 空襲がはげしくなるにともない、この夏の乗客は急激に減っている。
平時は人の波が重なり合っていた東京駅頭も、今は爆撃を受けて古墳のように静かで青天井の下にあった。

急行列車からおりたのはリュックサックを背にして地下足袋に脚絆きゃはんを巻いた、ただ数人であった。
防空壕は崩れかかり、水道は破れ、水は出ほうだい、丸の内は人気のない静寂さであった。
私はまずその破れた水道に手をのべて、洗面をすませた。
 
 丸の内、有楽町、内幸町うちさいわいちょう一帯は無事だったが、大東京は昔日せきじつの面影もなく、大半は灰燼かいじんと化し、ひろびろとした焦土の原となっていた。

毎日の空襲におびえおののく都民は、疎開するのにせいいっぱいで、旅館という旅館は客どころの騒ぎではない。都庁にも用件があるので、毎度のごとく宿を日比谷公会堂つづきの4階に決めた。
この場所は焼夷弾しょういだんぐらいなら大丈夫と思い、夜は椅子を六つ集め合わして、これを畳一枚を敷き、毛布を掛けて即製のベッドにするのである。
 
 ここから新宿をへて、田園調布の海軍経理本部へかよった。
この前きたときは本線が爆撃を受けて、小田原急行で新宿へ入った。
新宿一体が空襲を受けた直後だったので、まだ焼け残りの煙がまきたっていた。
その残り火で飯盒炊事はんごうすいじをやったこともある。今は黒い焦土の跡に残った、駅の波トタン屋根に、なまなましい焼夷弾の弾痕が幾百ともなく目にとまる。人々の顔は哀愁にみちていて、上京のたびごとに暗いさびしい心が深まってくる。
 
 六日、用件もはやくすんだ。
同じ戦時中でもいままでは、公用証明書があってでさえ、遠距離乗車券の入手はたいへん手間とっていたのに、このたびは八重洲口の橋の上で順番を待つ必要もなく、やすやすと帰りの乗車券が手に入った。
けれども、広島までの列車に乗るのは時間がわるい。それに空襲の恐怖があるので、郊外へ出てみようと考え、省線電車で上野についた。
 
 上野広小路一帯も焦土の原で、上野の百貨店が一つさびしく立っていた。京成上野地下駅から千葉の成田不動に向かった。車窓からみると、広い田には、青い稲の葉が平和な波をうっている。その空高く、気球監視所が夏の風にゆらいでいる。
この田舎も、戦時の施設が色めいているなと思ううちに、電車は成田駅についた。
空襲の激化は参詣人を急速に減らしているらしく、町のどの商家しょうかもさびれている。人々は何者かにおびえて、疲れ果てた枯木立のようだ。
石段を登って本堂に参詣した。裏の公園の夏木立に油蝉が鳴きぬいて、この町のさびれ方にいっそう気勢をあげているようだった。
私は右門の前の旅館へ一泊した。
 
 七日朝、時間もまだはやいので、遊び半分の気まぐれに、成田不動の境内入る右門の内側の小売店つづきの、左から二軒目に、易を占ってもらうためにたちよった。
 
 「どうぞご腰をおかけください」
 
 易者は一生懸命に 口の中で何かつぶやきつつ、筮竹ぜいちくを繰り、黒い板ぎれを組み置き、組み直しては、頭をふってけげんそうにしていた。
 
 「わたしはながいあいだ易を占っているが、ただいまのこの易ほど
  ふしぎなえきを占ったことがない」
 
 と色々な易書をとりだして頁をくっていたが、ゆっくりと私の顔を見いり、
 
 「まことにふしぎな易です。これによると天と地が逆転する大事件が
  近いうちにかならずおこる、人間の想像も及ばない大事件です。
  人々が何十万死ぬるか、それをはかることはできない。
  ふしぎなことには、あなたの命は必ず助かる。
  これは真に相違することはない」
 
 四十五、六の身の丈五尺二寸内外、中肉の顔は角めいてで浅黒く、油気のない黒髪のこの男は、真剣なおももちでそういった。
 
 「へえ、それは昨日の朝も空襲で東京は大変だった。
  毎日毎夜のできごとだからなざ」

 「この易とはかならず相違しておる。日数がくればかならずわかる。
  ふしぎなことだ。ふしぎなことにあんたの命はかならず助かるよ」

 「大勢の人々が死ぬる大事件がおこるのに、私が助かるなんて
  おかしなことじゃないか」
 
 と、とりあげない私に易者は怒った様子だ。
 
 「これは易に出たのです。
  疑うのならこの易書をごらん。
  あんたには必ず仕事が残っている、仕事がすむまでは死ぬことは
  ありません」
 
易者のさしだした易書を見た私は、うす気味悪いうちにもふしぎなことをいうものだと思った。昭和二十年七月七日午前十時頃のことだった。この易者の氏名はたしか渡辺と聞いた。
 
 七日午後十一時半、私は広島へ向かう急行列車で須磨海岸すまかいがんを進行中だった。

 汽笛が鳴りひびき、地上の砲火は時をうつさず火を吹く。火炎の玉はあられのように落ちてくる。まもなく明石全市は火の海となる。
B 二九は手にとるように低く、業火の光に編隊の機影を映しだしている。列車は進行不能になった。市街地の建築物の燃えたぎる雑音が耳についていたが、私は列車の中でいつの間にか眠りに落ちていた。

 八日朝、昨夜の混乱にひきかえ、なにごともなかったように海岸の浪はどぶりどぶりと寄せてきて、銀の飛沫と砕けていた。
いまだに市街は燃えつづけ、いましがたまでの繁華な市街地とも思えぬ、ひろびろとした焼野原に変わってゆく。
しかしふしぎなことに、この市街地には多くの市民がいるはずであるのに、怪我人も死人も見ることができない。
私はよくも逃げたものだな、とつくづく思った。

 汽車は空襲のため明石市でストップしてしまった。仕方なく私たちはそこで下りて、播州平野ばんしゅうへいやの国道を徒歩で、次の大久保駅まで歩かねばならなかった。


最後までお読みいただきありがとうございます。

昔の言葉使いが多いので、大変読みにくかったかと思います。
このあと方言もたくさん出てきます。
全部で23章ありますが、10章まで無償で公開します。

この物語はすべて実話です。
この話を電子化することは、私の使命だと思っています。

本作品を紙芝居、アニメ等で広く知らせる活動を検討しています。
ご賛同いただけるかたはスキをよろしくお願いいたします。
また、11章以降すべてが読めるマガジン購入の検討もよろしくお願いいたします。

マガジンで全話読めます!(売上は一部平和記念資料館に寄付します)

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