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億単位の金を動かす男になれ!

時はバブル崩壊寸前だった頃、大学4年生で湾岸戦争が勃発。
「そんな中で就職活動かよ…」
と周囲が漏らしていたが、終活が解禁。
特に大きな影響もなく、そのまま”売り手市場”の甘々な状況だった。
企業はこぞって青田刈りすべく、様々なイベントを開催した就職説明会を行っていた。
今では考えられないが説明会後、人事の担当者に個別に呼ばれて高級な料理店に連れて行かれるのなんてざら。鈴鹿サーキットを貸し切って、会社が所有するフェラーリの体験会や会社の所有するクルーザーでパーティーを行う様な企業も有った。
何かそういうのに冷めた目で見ていた俺は20社くらい説明会には行ったけど、最終的に決めた会社はそういうことを一切しない会社が何となくちゃんとした目線で見てくれているんじゃないかと思って、就職した。

選んだ職種は営業。当時の俺は社交的だったことも有るし、大学時代に3年間続けていた大手スーパーの倉庫のバイト先の社員さんに
「男だったら、億単位の金を動かす人間になれ!」
って言われた言葉が何処かずっと引っ掛かっていて、『億単位の金=営業職』って図式が安直に出来上がっていた。
就職先の会社は一部上場企業の当時は子会社のメーカーだった。当然、入社直後の新人が与えられる仕事は”敗戦処理投手”がするような出がらしみたいな仕事。夢に描いた”億単位の金を動かす”なんて程遠い。正直、腐っていたことも有った。
そんな時に当時部長だった上司から言われた言葉が、
「これはお前に与えた仕事なんだ。お前が個人事業主だと思ってやってみろ!俺がケツを拭いたるから…」
これを言われた当時はその意味が余り分かっていなかった。
ところが、与えられていた2つの仕事のうち1つをこのまま事業継続かそれとも終わらせるか決断を会社として迫られた。俺自身は会社として方向性が全く異なる仕事だったので、そのまま継続という答えは無かった。ただ、こういうタイミングのために人脈を頼りにうちのブランドでOEMを受けてくれる会社も見つけていて、そこの常務ともしものために話を付けていた。
今考えると20代前半でそこそこの会社の常務が若造の話をよく聞いてくれたものだ。これって、結局会社の名前の力なのよね。俺個人の力じゃない。
で、部長にそのプランを説明。
「よし、常務に会いに行こう!」
そう言われて、話は纏まりその仕事はそういう形でケリをつけた。

その時俺は思ったんだ、こんな仕事俺の後に来るかもしれない後輩にやらせる仕事じゃないって…

もう一つの仕事はこれまた全く本業とは異なる事業で、工場に小さいながらプラントを持っていてそこに働く従業員の方がいた。俺は工場に行って現場の人と直接話すのが好きだった。そこでした他愛のない雑談が仕事のチャンスにつながるときもあるということを身をもって早くから知った。ただ、やっぱ、社内ではそのプランとのことを”おもちゃプラント”や”負の遺産”と言われ、必ずしも日の当たる存在ではなかったのも事実。実際、そこで働く現場の人も腐っていた。真っ直ぐで馬鹿正直だった俺は何かそれが許せなかった。実際、社内の事業発表会でその事業について発表しろと言われ、社長以下取締役が勢ぞろいする中でプレゼンをさせられ、市場動向や将来展望を説明したとき鼻で笑われていたのを感じていた。
『なにくそ!いつか、笑っているあんたらを俺が笑い返してやる!』
って、何かどっから来るのか分からなかったがそんな自信を持っていた。

不思議なものでそう思っているとチャンスは舞い込むもので、その商品をサンプルで出した先から呼ばれて、商談が成立。それはこれまでとは全く違う用途への転用だった。
当時の俺は土木用だったその商材をそのまま同じ用途で販売しても、それ以上の売り上げは見込めないと思っていた。その理由はそのニーズに対し既に大手企業がほぼ独占状態。価格にしても建設物価版と言われる決まった価格の中で、当時の一次代理店に卸す価格では全く利益が見込めない状態。これを打破するには新しい用途へのアプローチしかないと思っていた。

その採用された商品とは約30年前に発売されて、今日にも継続して販売されている消臭剤。当時はヒット商品となり、その採用されたメーカーの”第二の顔”とまで言われた商品にまで成長した。

売り上げも、それまで月間400万円だった売り上げが、面白いほどうなぎ上りに売れて、月間1000万円を簡単に超えた。当然、プラントはフル稼働。
現場の人達は笑顔で俺を迎えてくれるし、社内で誰も”おもちゃプラント”とか”負の遺産”という人間は居なくなった。

結果的には年間売り上げ、1億円越えを実現。

入社して2年で入社前に漠然と描いた目標であった
『億単位の金を動かす』
という目標を達成した。

自画自賛だけど、あの時の自分はよくやってたよなって思う。

当時の俺は三流、いや、四流大学を出て、周りを見回しても国公立、有名私大どころか東大、京大卒まで当たり前のようにいる中で、社内にはハッキリと学閥まであり、そんな環境で這い上がる手段は”実績”だと信じていた。

いつも心の中では

『喧嘩上等!』

って、叫んで仕事に向き合ってたんだな…

そして、同時にに思ったのは一人の力で出来る仕事は限られていること。
製造現場で働いてくれる人があっての俺の売り上げ。
その人を大事にしないと、目標は達成しない。
俺の仕事を支えてくれる人が居るからこそ、思い切った仕事が出来るんだって…
だから、仕事で恩返しして、その人たちを笑顔にしたい。
バカにしてきた奴らを見返そうぜ!ってネ!

それは未だに俺の根底にある。
今も仕事に対する俺の立ち位置は当時とそう大きく変わらない。

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