公共の福祉と感染症

2020年3月に初めてCOVID19の感染者が日本に到着し、ダイヤモンドプリンセス号に患者が隔離されていると聞いたとき、果たしてどれだけの人が隔離者の人権について考慮したであろうか。多くの国民が「隔離されていて安心だ」という、隔離を肯定する感情を抱いたのではないか。研究により飛躍的に医学が進歩した現代でさえも、未知のウイルスが発見されたとなると一般民は忽ち保身しか考えられなくなるのだ。果たして、100年前、感染症であることしか分からない「ハンセン病」という脅威と直面した国民はどれだけの衝撃を受けたのだろうか。

 ハンセン病は、らい菌によって接触・飛沫感染する感染症だ。とはいっても感染力はめっぽう弱く、現代の衛生的な環境下では罹ることはまずない。万が一罹っても、安静にしてバランスの良い食事をとれば自己免疫で回復するという。しかし、100年前には数万人もの人が感染し隔離された上に重症化している。その理由は、当時感染者が隔離されると、問答無用で所謂「自給自足生活」を送ることを余儀なくされたからである。もちろん食事も自分たちで作る。そのために開墾をする。そんな重労働が原因で症状が進行して介護・看護が必要になっても、それを行うのは軽症患者だ。こんな隔離生活は無論基本的人権に反している。しかし、患者本人も含めて国民はこれを当たり前のことだと捉えた。なぜなら「公共の福祉」を守るためだ。私は、100年前にハンセン病が確認された時、政府が国策で世論を動かして、地域住民に感染者を告発させて強制隔離に追いやったことは、愚策ではないと考える。なぜなら、感染力も不明で特効薬もない、ましてや現在のような感染防護具も開発されていない世の中では、収束させる為には隔離しか選択肢がないはずだからだ。さらに、外部から支援する手立てがない以上、自給自足生活は免れない。もし支援できる手立てが発見されていたとしても、看護師らが自ら進んで未知の感染症の脅威の中に飛び込んでいかなかったことを非難できない。つまり、最大多数の最大幸福を原理とする公共の福祉を考慮すると、当時のハンセン病対策は、ある意味正しかったのではないかとすら考えられる。

 以上のことをふまえ、感染症が蔓延した際に看護師に期待される役割は何だろうか。私は、普段の看護師の業務を何ら変わりなくこなすことであると考える。具体的には、まず患者を正しい知識によって理解すること、そして患者を対等な立場で看護を行うことである。これは、例えば認知症やがんの患者を看護する際も同様である。ハンセン病では研究の遅れによって疾患に対する正しい情報が得られなかったが、現在は病原体の特定が早くなり、迅速な対応が可能である。百歩譲って一般市民が患者に対し歪んだ知識で偏見を持ってしまうことは避けられないとしても、医療従事者である看護師がそれに飲み込まれてはいけない。感染力や重症化リスクなどの客観的事実に基づいて患者をアセスメントし、介入することが重要だ。また、感染症に罹患した患者を低い立場として捉えてはいけない。実際にこの学生生活でも濃厚接触者になっただけで、看護師からまるで汚物を見るような目を向けられ、少し近づいただけで強く叱責されたという。私たちは看護のプロとして、自ら曝露しないように感染対策を講じながらも、丁寧な声掛けによって対等な立場として看護をする必要がある。

 ハンセン病では、患者の人権を損害することでしか公共の福祉を守れなかった。今のコロナ政策も、100年後の未来から見ると、人権を蔑ろにしているように映るのかもしれない。しかし、看護師が負うべき役割はどの時代でも変わらないはずなのだ。

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