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【千字掌編】風の音が聞こえる……。(土曜日の夜には……。#20)

 由芽は珈琲ショップ紫陽花で片肘をつきつつ珈琲を楽しんでいた。先頃の楽しみなどそれぐらいしかない。もう、パートナーを探す気力もでない。恋なんてまた遠い出来事だった。そんな窓にふっと見覚えのある顔が写り込んだ。
「え? 田中……先生?」
「はい?」
 顔を声の方に向けると初老の男性が由芽の顔を見ていた。
「あ。永井さんじゃないですか」
「そういう先生は田中先生?」
 その男性は偶然にも中学校の数学の教師田中だった。彼の授業は厳しく、表情も強張っていた。今のような柔和な顔つきとはまったく遠くかけ離れた人物だった。
「まだ、教壇に立っておられるのですか?」
 いえ、と田中は言う。
「数年前に教職を辞してから画家をやってますよ」
「先生が画家?」
 かけ離れすぎている世界に由芽は驚く。
「そう、あらさかまに驚かなくても。数学と絵画は似てるんですよ」
 一瞬、また授業が始まるような気がして背筋が伸びる由芽である。そんな由芽を苦笑いして見る田中である。
「そんなに怖い教師でしたか? 私は。よく言われるのですよ。あの時の先生は怖かった、と」
「そりゃもう。怖いなんて通り越して怒られないのが一日のバロメーターでしたわ」
「ひどいなぁ。そこまで私も極悪非道ではないですよ」
「いえ。極悪非道でした」
 顔を見あわせて笑い合う。それから二人は昔話に花を咲かせる。ひとしきり、話たところで、客が入ってきて新しい風を連れ込んできた。秋の風の音は爽籟とも言う。そんな音が聞こえた気が由芽には思えた。ふと、口に出す。
「先生。私も、新しい何かをしてみたいな。こうして珈琲を飲むことぐらいしか目新しいことないんです。新しい生き方を始めて見たい。先生のように……」
「ああ。永井さんにもさっきの爽籟が聞こえましたか。私にも永井さんになにか新しい風が吹き込まれたような気がしました。顔つきが少し、変わってますから」
「え?」
 由芽は思わず両頬を触る。
「秋の風の音を爽籟というそうです。永井さんの心に爽籟がひびいたのかもしれませんね」
 穏やかな顔の田中の言葉に思わず硬直する由芽である。そこまで見通されてるとは、流石は田中先生だ。
「じゃぁ……」
「ええ。妻のいるときにおいでなさい。絵の基礎を教えますよ」
「ありがとうございます」
 風の音。爽やかな秋の風が由芽に新しい色をもたらした。爽籟として。いろなき風はどこまで由芽の新しい人生を彩るだろか。マスターはそんな二人の会話をバックミュージックに人の人生を考えていた。


あとがき
またも秋の歳時記をぱらぱら見ながらしていると見たこともない字が。「爽籟」パソコンで打つとあっという間に出たので、これをキーワードに日常を描いてみました。恋物語からは少し離れました。たまに人生の折り返し地点でも新しい何かがあるんでは、と思うときもあるので、またも紫陽花を舞台に書かせて頂きました。これ書いてる途中で、嫌な思い出を思い出しましたが。Facebookにイイネ、つけたらそれを見た学友が支援を相手先に申し込み、相手先が私の上司だっために公私混同してと電話で怒鳴られました。泣きながら私は何もしていないと言ったのですが通じず。いいね押すだけで公私混同って。なにもFacebookの事を知らない人なんだな、とあとで思ったものです。タイムラインに乗っただけで怒鳴られるなんて。あれ以来、怒鳴り声はもう恐怖です。厳しい先生でも怒鳴らない先生がいいと思います。不遇の時代もあったもんだ、とつくづく思ってます。そうだ。今日の模試にも公私混同があってそれで余計に思い出したんだ。自分は正しいと思って怒鳴る人は信用できません。SNSの場所を教えておいて。目立ちたかっただけじゃん、と思います。結局会わなくなりましたが。先生じゃないので。先生だって会えないし。頼れる人は学校関係では皆無です。死んだって噂すらならないんでは、と思います。縁が完全に切れているので。勝手にしてれば? と思うだけ。この話とはまったく正反対の状況にいる私でした。
ここまで読んで下さってありがとうございました。

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