見出し画像

能登半島地震 一か月経過後に思う

Noteの更新が久しぶりになってしまいました。
トップの写真は、2023年秋に、奥能登国際芸術祭2023を鑑賞するべく、珠洲市を訪れた時に撮影した、蛸島漁港の写真です。

2024年1月1日、16時07分。
茶の間のテレビからの緊急地震速報の音と、両親の声を聞いて、慌てて自室のテレビをつけました。
2023年、群発地震のようにしょっちゅう揺れていた能登のほうでまた大地震。テレビ画面には、珠洲市役所からの定点カメラの映像が映し出されていました。

「うわぁ、能登のほうでまた揺れたのか、正月早々落ち着かないなぁ」

と思っていた矢先、16時10分、けたたましい緊急地震速報の音。
これが令和6年能登半島地震の本震でした。
揺れる部屋の中で、パソコンデスクの下に隠れ、必死に踏ん張っていたとき、定点カメラの映像の中で、砂埃が上がりました。
「あっ!家が崩れた…!?うそ…!」

 
公表によると揺れは2分くらい続いたそうで。
その間、ミシミシいう音はあったけれど、物が落ちてくることは一切なく、トロンボーンを収めた楽器ケースも倒れず、家が倒壊することもなく、電気もついたままでした。
「命と家は助かった」ということでひとまずほっとしましたが、そのあとに津波警報が‥!

部屋着だった僕はすぐにでも避難できる体制を整えなくてはと、家の玄関のドアを開けて、厚手の洋服とジーンズに着替え、無印良品のリュックに、貴重品と水と食料とカイロと小型ラジオと‥といった、最低限の非難に必要なものをそろえ、家の外に出ました。
近所の人たちの家も無事で、停電も起きていませんでしたが、みんなぞくぞく家の外に出てきて、
「避難って言われてもどこに‥?」
という感じでその場に立ち尽くすしかありませんでした。
というのも、僕の家は、海岸線から600mのところにあるものの、町の中では一番海抜が高いところなので、ここまで大津波が押し寄せてくることはないだろうとは思っていました。でもいつでも逃げられるように&さらなる余震があるかもしれないので、つけっぱなしにしたテレビの情報を見聞きしつつ、家と外とを行き来しながら、しばらくは外で待機しました。

一時間ほど経って、各地で津波が観測される中、日本海側の僕の町には津波が押し寄せなかったことがわかり、いったん家の中に戻りました。


その直後、水が出ないことがわかり、冷蔵庫の中に飲料用として入っていた水や、非常用に持っていた水を集めましたが、それでは足りません。
コンビニや開いているスーパーには人が殺到しているだろうし、家の近くのドラッグストアはお正月でしまっていたので、僕は父の車で家の近くの工業団地に行き、人や車の行き来が少ないであろう通りや、会社の敷地内に設置されている自販機で、(一本当たりの値段が高いのは仕方がないとして)500mlのペットボトルの水を何本か買ってきました。
でも、あれだけ大きな揺れだったし、年始のことだから水道がいつ復旧するかもわからないので、翌朝になって別の自販機でたくさん水を買ってしのぎました。
そのうち、母親の友達の家では水が出ていることがわかり、2リットルのペットボトル何本かに水を分けてもらうことができました。


とにかくその日を含めしばらくは、いつでも避難できる格好のまま就寝し、NHK障害福祉賞の副賞でもらった、緊急警報も受信可能な防災ラジオの電源を入れっぱなしにしておきました。
 
1月2日の昼に一時的に水道が復旧しましたが、しばらくしてまた止まってしまい、1月3日の朝に水道が復旧しました。
それだけでどれだけありがたいと思ったか・・!


1月4日から仕事はじめだった僕は、朝早く会社に行って、ぐらぐらになった椅子やおっこちた書類を元に戻したり、年末年始にたまった新聞や郵便を配ったりしましたが、これから始まる長い災害対策に向けて、会社内がすごくピリピリしているのをすごく感じました。
でも、一番は「命を落とすこともなく、衣食住がいつものままで、仕事に行ける」ということに、心から感謝しているということでした。
と同時に、奥能登の被災地の惨状を見るにつれ、日に日に心がつらくなってきました。
 
僕の母は、石川県鳳珠郡穴水町の出身で、僕の体にも能登の血が半分流れています。
(僕を一番にかわいがってくれた祖母は数年前に亡くなり、その祖母の介護のことをめぐって親戚とは縁を切っており、ここ十数年、母も家族も穴水の家には行っていません)。

コロナ禍の時‥「県境を跨ぐな~」とうるさかった当時は、のと鉄道能登線の廃駅をめぐる旅によく行きましたし、2021年と2023年に開催された、奥能登国際芸術祭にも行きました。
さらに、地震発生の2日前――12月30日には、付き合い始めて数か月の恋人と、輪島千枚田の「あぜのきらめき」を見に行っていたのです。
あと2日早かったら、僕の命も危なかった‥でも僕は被害に遭わなかった・・
その代わりに、「能登は優しや土までも」と言われる、控えめで働き者で、人をもてなすことが好きな優しい能登の人たちが、つらい目に遭っている‥。
人口が少ない過疎地。時代が進むにつれていずれは消滅するかもしれない?と言われている田舎町で、こんな大きな災害が起きてしまったことも、すごくつらいものがありました。
しかも、奥能登は道路が少なく、距離こそさほどないにしても、能登半島最先端の珠洲市狼煙(のろし)にたどり着くまでの所要時間は、金沢から高速道路を使って名古屋あたりまで行くのと変わらないくらいかかるのです。救助に行く人たちの大変さも思いました。


そして極めつけが、今回の地震で亡くなった人、家族を亡くした人のことです。
全国放送で流れた寺本直之さんは、僕の初めて勤めた障碍者福祉施設の先輩にあたる方なのですが・・穴水町にいる奥さんのご両親の家に帰省していたご家族と子どもたちを、すべて亡くしてしまいました。

また、僕の大学時代の吹奏楽部のチューバパートの先輩は、OBとなって現役生と一緒に演奏する機会で、僕の後輩にあたるクラリネットの子と出会い、結婚して9歳の息子さんがいましたが、珠洲のご実家に帰省中に、家族二人を亡くしてしまっています。NHKのインタビューに応じていた先輩の顔には、いつも見られる笑顔がなく、すごく切なかったです。
他にも今回の震災で、「だんなさんだけが生き残って残りの家族全員が亡くなった」というケースをあと2つ知っています。

それだけに、なんと声を掛けたらいいのかわからない・・そう簡単に前を向いて進めるものではない、と考えただけで、日に日に明らかになる震災被害の様子のテレビ中継と合わせて、僕は「サバイバーズギルト」になってしまい、共感疲労でつらい毎日が続きました。
 
どんなに「被災者のことを考えるよりもまず自分のことを」と言われても、同じ石川県民だから、被災した人たちの苦労を感じずにはいられなかったのです。
 

それでも、いろんな人の励ましを受けて、ようやく、
「生き残った命に感謝して、できることを粛々とやっていく」ことを大切にしようと思えたのは、地震発生から20日ほど経った日のことでした。
今では、大好きなトロンボーンを吹くこともできるようになり、自分の楽団の演奏会や、春に開催予定の音楽祭に向けて、少しずつ練習をしているところです。



2月1日、地震発生から一か月。
仕事で毎日郵便局に荷物を出しに行くのですが、そこでそっと黙祷を捧げました。


今回の地震でまだまだ思うところはありますが、2024年もNoteは少しずつ更新していきたいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?