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探求とは?「分からない」本質


転ぶ経験 起き上がる経験


走り回っている子どもを見ると思う。
「転ばないかな?」
転んでしまうと怪我をしてしまう。走り回っていると誰かとぶつかる。教員時代もよくヒヤヒヤしたし、なるべく転ばないように、怪我をしないようにという感覚で休み時間など見ていたような気がする。


でも、「転ばない」ことって、先回りして防ぐほど大切なことなのだろうか?


子どもは転んだ数だけ強くなれる!たくさん遊んで転んで運動神経をアップさせよう|宮口和義(石川県立大学教授)

こんな記事を見つけた。転ぶことで、転び方が上手になって、次第に転んでも怪我をしなくなる。(もちろん程度によりますが)
「転んだ数だけ強くなれる」
怪我を勧めるわけではないのを前提として、やはり転ぶ経験というのはある程度は必要になってくるのではないでしょうか。親心として心配になるのは分かりますが。


転ぶ経験=起き上がる経験とも言えます。


転んだ分、その数と同じだけ起き上がっていると言えます。ここで大切なのは、周りが過剰になり、起き上がらせてあげるになってはいけないこと。※頭を打つとかは別です。転ぶことの経験よりも起き上がる経験がその分、その子を強くすると言い換えることもできるのではないでしょうか。


これは学びにも同じことが言えるのではないでしょうか。


「分からない」ことを恐れ過ぎてはいけないような気がするんです。「分かる」ようにならないといけないので、全て周りの大人が先回りをして、なんとかして「つまずき」を避けて通らせてあげたい。そんな思いが強過ぎて、「分からない」を経験せずに育っている人、または「分からない」がいけないこととして考えをもってしまっている人が多くなっているのではないか。
そもそも大人になり、もっと自分の世界が広がっていけばいくほど「分からないこと」なんて山ほどあり、「分からない」が日常になっている。「分からない」ことを恐れていたら何もできない。
むしろ、その「分からない」を楽しむくらいの気持ちが必要。


何よりも「分からない」をつまずいたところから、どのように「起き上がるか」の方が大切なのでは?

起き上がれる経験があれば、次の「分からない」が来たとしても、起き上がり方を知っているので、自分でその「分からない」を楽しむことができる。
ただ、今の教育現場の環境に「分からない」ことを楽しむような時間的な余裕はない。受験や試験というゴールに向かわされて、そこに向けてどれだけ知識をもつことができるかという競争や、次から次へと新しい知識が出てくるようなカリキュラムに溢れている中で、
「分からない」を楽しんでます。
なんて言ったら、周りも不思議に思うだろう。
もちろんそう言ったカリキュラムもその人たちの人生の中では何か価値を与えてくれるのかもしれない。

分からないの本質

「分からない」にも価値がある。
この「分からない」には価値がない。
「分からないことが分かった」
「分からない」からの1歩の出し方。

そういった「分からない」ことの本質を追求したり、自分なりに「分かる」「分からない」ってそもそも何なんだ?
学んでいる人も、それに寄り添う人も一歩立ち止まる「余白」が「学び」というものを変化させていくのではないでしょうか?
そういった経験が本当の意味で学べる子に育つのではないか?そんなことを走り回る子どもたちを見て思う。

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