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我思う、故に我あり(デカルト)

 デカルトの有名な言葉であるが、誤解も多い言葉でもある、と思う。
 これは「考えない奴は存在しないのと同じ」という意味では、もちろん無い。
 ただ、これは終着点ではなく出発点である、と言われたら、ピンとくるだろうか?

 ソクラテスは「無知(不知)の知」と言った。
「あんたら当たり前のように知っていると言うが、それは知っているつもりになっているだけだよね?」と。
 ならば「知らない」という事を知っている分だけ自分は賢い、と。(これは別に「お前らより俺の方が賢いぜ」とマウント取っている訳では無い、筈だ。というかマウントを取っていると理解してしまうと、途端にソクラテスがしょぼくなるので、そう解釈するのは辞めよう)

 そして、この「知っているつもり」を否定し続けたのが、デカルトである。
 ありとあらゆるモノを否定して否定して否定し続けて、思考している自分だけは、どうしても否定出来なかった。
 では、何の為に否定し続けたのか?(デカルトが只のネガティブな人(陰キャ)だった可能性もあるが、そう理解してしまうと以下略)
 より良くする為に、である。
 もう一度「疑いようのない所から学問を再構築しよう」とした為である。
 なので「我思う故に我あり」は終着点ではなく、出発点なのである。
 つまり、「より良く生きる(向上心)」為に、無知を自覚し、知ろうと行動した、という事である。

 以上から「我思う故に我あり」は「終着点ではなく出発点」なのである。

 さて、現在になぞらえてみよう。
 ハンナ・アーレントは「イエルサエルのアイヒマン」の中で「凡庸な人間こそが極め付けの悪となりうる」と言った。
 つまり、悪とは陳腐であり、我々全員が悪になりうる、と言ったのである。因みにこの悪とは、泥棒とか強盗とかそういう話では無く、巨悪の事を指している。
 平たく言うと「アウシュビッツ」等のホロコーストの事であり「お前ら全員大量殺人者になれるんだぜ」と言っている、と思って貰ってよい。

 ではアーレントの言う悪とは何か?
 それは「システムを無批判に受け入れる」つまり思考停止状態の事をいう。
 アウシュビッツの例で行くと「自分は通報しただけ」「自分はトラックを運転しただけ」「自分は収容所にいれただけ」「自分はガス室に送っただけ」「自分はボタンを押しただけ」「自分は命令されただけ」という、巨悪を行った人はすべからく凡庸だった、と。
 いわゆる悪の帝王みたいなキャラではなかった。
 現代に置き換えてみよう。
 例えば「今のシステムで上手くやろう」「これはそういったもの」「誰それがそういってた」「あれにそう書いてあった」「昔からそうだった」とかとか。
 こういったモノに慣れている我々はいつでも巨悪を成しえますね、という話である。

 巨悪を行う可能性があるかどうかはさて置き、「今のままでいいや」では社会は向上して行かない。停滞する。それで良い?
 良くないのであれば、デカルトの手法を用いてみる、つまり「社会をより良くして行くために、現在を批判的に俯瞰(全てを疑い)し、システムを刷新していく」という手もある。

 但し、現代はデカルトの時代と大きく違うことがある。
 それは「世界が非常に複雑になり過ぎていて、全てを疑うには余りにも時間が足りない」という事である。
 赤信号で何で止まらなきゃいけないの?そもそも信号は緑じゃないよね?なんて事を考えだしたら、キリがない。

 しかし「出来ないから何もやらない」ではなく「自分にとって大切なモノにこだわっていく」つまりリソースを集中させる事は出来る。
 そして人によって大切なモノは異なる為、多様性のある社会では様々なモノがアップデートされていく。
 そうやって世界全体がアップデートされて行けば、きっと未来は今よりももっと素晴らしいものになる、と思う。

 そしてBESTはない。何故ならBESTは終焉だから。
 BETTERを求め続け、より良くなり続ける社会の実現の為に、思い込みを捨てる、つまり「知っているつもりを否定し続ける」という行為が必要なのではないか、と思う。

図1


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