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弁証法(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル)

 対立する2つが分かりあう手法として「弁証法」というのがある。結構有名。
 簡単に言うと、正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)が努力(アウフヘーベン)によって合(ジンテーゼ)に至る、というドイツ語で言うと何かとってもカッコよい響きがする内容である。
 個人的には、言葉のカッコよさ、というのは大事だと思っている。だってその方が流行るじゃない?でも日本人伝わる言葉は日本語の方なので、オレ知識人!と偉ぶりたい時はドイツ語を使おう!(でもちゃんと褒めてくれる人の前でやるのが吉、です)

 これはどういう事だろうか?と考えて見る。
 対立した2つが「私と貴方は違う」という大前提の下、「努力」によって、「新しい価値観を生み出す」よ、という事であるが、それはさっきの説明をカッコわるい言葉にしただけな気がする
 合の所だけ説明すると、「対立する2つの価値観がお互い何一つ譲る事無く、新しい価値観を構築した状態」である。
 これなら少しは分かった気になれるだろうか?

例えば、
 ・10円玉は丸い
 ・10円玉は四角い
を両立させて見よう。
 「10円玉は丸い」は誰でもそうだ、納得してくれると思う。
 「10円玉は四角い」は果たして本当だろうか?
 でも実際、四角いと思った人がいて、実はそれは誰でも見慣れた光景の中にある。(無い人がいたらゴメン))
 自動販売機のコインの投入口。丸いだろうか?長方形だ。
 もし、丸いという事実だけであるならば、コインの投入口は丸かっただろう。(使いにくそうだ)
 と言う訳で、「10円玉は丸くて四角い」という合に至った。

 自分は、弁証法は「温故知新」に似ていると思う。
 「歴史は繰り返す」「歴史は進化する」を両立させる為に螺旋階段を思い浮かたようなイメージでいる。

おんこ-ちしん【温故知新】
前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすること。古いものをたずね求めて新しい事柄を知る意から。▽「温」はたずね求める意。一説に、冷たいものをあたため直し味わう意とも。「故ふるきを温たずねて新あたらしきを知しる」または「故ふるきを温あたためて新あたらしきを知しる」と訓読する。

 因みに、合に至ったらそれでおしまい、という訳では無い。
 次の反と努力により更なる合に達する。それを繰り返して行けば、世界はどんどん良くなっていくだろう、というのが弁償法である。

 次に「分かり合えない」というのを考えてみよう。
 「分かり合えない、理解出来ない者」を「他者の顔」と言った人がいる。
 人は主観的な生き物である。
 主観的であるがゆえ、本来、他者とは絶対に分かり合えない。何故なら、他者の人生は生きられないから。
 では何故分かり合えた気がするのか?というと「自分の中に他者が語る世界がある」からである。

 例えば、リンゴを食べた事が無い人に対して、いくらリンゴの味を語ったとしても伝わらない。リンゴの味が伝わるのはリンゴを食べた経験が自分の中にあるからである。
 先天的に盲目の人に対して、空の青さをどう伝えるのだろうか?自分に犬の気持ちが本当に分かるだろうか?アユは?虫は?木は?とかとか。
 そう考えていくと「人間は主観的な生き物」というか、「主観しかない生き物」である。

 弁証法という目で見て見ると、他者とは「自分が変わるきっかけ」である。
 養老孟司は他者との間には「バカの壁」がある、と言った。相互理解を「バカの壁」が邪魔をしている、と言った。
 このバカの壁を乗り越えた時、何が起こるのか?
 それは自分の世界が広がる、という事である。
 何故ならば、人間は主観的な生き物であり、自分の中にその世界が無ければ分かりようが無いから、である。
 つまり「他者を理解する」という事は「自分の世界を広げていく」という事である。

 その為にも「お互いが違う」という事を前提に、相手を理解しようと努力する。そして最終的にお互いが合に至る。
 つまり、弁証法とは
「自分をより良くしていく事で、同時に世界がより良くなっていく」
という事である。
 もう少し言うならば「より良い未来の為に変わろうと意志する事」である。
 その為にも、分かり合えない他者ほど、尊敬し、理解しようとする、という行為が大事である。

(と口で言うのは簡単だけれど、実際は難しいですよね)

図1


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