Violet Evergarden ~ヴァイオレット・エヴァーガーデン~

 「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と言えば、2度に渡る延期後、ようやく劇場公開となった、ロングラン映画、である。
 本編から見ていたので、この劇場公開は感極まるものがあった。
 1度目の延期は、京アニ放火事件。
 2度目の延期は、コロナ禍。
 もう何か呪われているのでは?と思う。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンとは何?という人はコチラから。
https://www.youtube.com/watch?v=OLQs_wqFR18
あらすじ
http://tv.violet-evergarden.jp/story/#about
とある大陸の、とある時代。
大陸を南北に分断した大戦は終結し、世の中は平和へ向かう気運に満ちていた。
戦時中、軍人として戦ったヴァイオレット・エヴァーガーデンは、軍を離れ大きな港町へ来ていた。
戦場で大切な人から別れ際に告げられた「ある言葉」を胸に抱えたまま――。
街は人々の活気にあふれ、ガス灯が並ぶ街路にはトラムが行き交っている。
ヴァイオレットは、この街で「手紙を代筆する仕事」に出会う。
それは、依頼人の想いを汲み取って言葉にする仕事。
彼女は依頼人とまっすぐに向き合い、相手の心の奥底にある素直な気持ちにふれる。
そして、ヴァイオレットは手紙を書くたびに、あの日告げられた言葉の意味に近づいていく。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンの主人公、ヴァイオレットとは、とある戦争で大量に人を殺した少女である。そして戦争終結後、自動手記人形(いわゆる代筆業)として働く事を通して人としての感情を得ていく、愛を得るまでの物語。と書いても嘘ではない。
 少なくとも生涯は描いていない。と断言できる。
 そしてヴァイオレットを話すにおいて、京アニ放火事件は切っても切り離せない、と思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1.ヴァイオレットは大量殺人者。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは「戦争で大量に人を殺した、自国では英雄」である。
 自国では、というのは、裏を返せば、相手国では只の大量殺人者である、という事である。
 ずっと自国にいるなら英雄のままだと思う。が、彼女は最終的に敵国の領土で生涯を終える(と思われる)。
 敵国の領土で生活、というのは、普通に考えたら中々に難しいだろう。何せ「家族を殺した人を好意的に受け入れる」という事に他ならないのだから。
 それでも、作中では少なくとも、否定的な場面は描かれていない。
 それどころか、その正体を感づいてもなお、好意的だと思われるシーンが描かれている。

2.京アニ放火事件は過去に例をみない大惨事。

https://twitter.com/jijicom/status/1337234528302211072
 何時まで残るのかは不明だが、大体「死刑」という反応である。
 Twitterは極一部である為、そもそもTwitter自体を大きく取り上げる事には違和感がある。
(Twitterをやっている人の数、その中で呟いている数、なんてのは160万人いたとしても、日本全国民の1%にしか満たないので、1%を全てと扱うにはちょっとどうかと思う)

3.京アニ放火事件の犯人とヴァイオレットの差は何だろう?

 同じ大量殺人者に対してこの差は何なのか?
 性別、年齢、容姿、、、、虚構と現実、というのがあるかもしれない。
 正直、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を作り、世に多くの感動をもたらした京アニのジレンマは正直、想像を絶する。
 何故なら、この犯人の否定は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」自体の否定、だと感じられるからだ。

 ヴァイオレットとこの犯人の分かれ目はなんだったのだろうか?
 正直、この犯人の事はわからないので割愛する。
 ただ、ヴァイオレットにはギルベルト少佐がいた。(ギルベルト少佐がいたら全員がヴァイオレットになれるかどうかは不明だが)彼の存在が彼女の生きる道しるべ(=大きな物語)になっていた、というのと、素直な性格だった、周りのサポートというか優しい人間ばかりだった、というのが大きいと思う。(普通は彼女が自動手記人形をやりたい、と言ってもやらせないだろう)

 そう、ヴァイオレットの周りには、何故か常に寛容な世界が広がっている。これは本当にビックリする。
 この寛容な世界、というのを説明する為に他の人の言葉を借りる。

 清水博氏の言葉を借りるなら。
 「自己組織的な生き方とは、互いの違いを受け入れて、互いの存在意義を高めて合いながら共に生きていくこと。違いを受け入れる時に、感情に多少の波だちが生まれても、共に向かう未来の夢がそれを「おたがいさま」と飲み込んで解消してくれるような開かれた大きな夢を共有すること」

 オードリ・タン氏の言葉を借りるなら。
 「みんながマイノリティーになりうるという感覚を」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/audrey-tang-huffpostlive-3_jp_5f3b6c61c5b6e054c3fe3177

 そういう世界、なのだと思う。

 では、現代日本はどうなのだろうか?
 ベネディクト曰く、日本は「恥と相応の場」の文化である。

「恥」とは何か?
 恥とは公恥の事である。日本は共同体が個人を守らない。
 例えば「家名にに泥を塗る」「自業自得」「自己責任」という言葉がある。
 学校の先生から電話があれば、子供を責める。
 切腹、という文化がある。これは、死して責任を取る、という事である。

「相応の場」とは何か?
 男性らしさ、女性らしさ、大人、子供、先輩、後輩、兄、弟、姉、妹、などなど。自分の役割を公が定義し、他人の役割に口出ししないさせない、という文化である。
 例えば「政治家は国民の為に尽くすべき」という役割を与えられ、自分がきつければそれは政治が役割を果たしていない、と糾弾する。(最近のコロナ禍では、その姿が顕著に見られる)

 それをベネディクトは「菊と刀」という言葉に集約した。
 因みにこれは明治以降の話である。それ以前は正直知らない。(知りたい、とは思うが)

 昭和の時代、日本は日本帝国として全体主義国家であった時がある。これは明治から大正、昭和の時代に作られた国家である。
 その中で「菊と刀」は有効に機能したであろう。
 そして、二次大戦後、アメリカから輸入した(強制された?)民主主義国家になり、自由・平等・公平の名の元、資本主義社会として成長してきた。
 しかし、令和の時代になった現代でも、我々は未だに「菊と刀」の時代に生きている。
 クロード・レヴィ=ストロースの構造主義によれば、我々は言葉で区別された世界で生きている。
 日本語の文脈は未だ「菊と刀」である。(自己責任という言葉の意味が変わっていない事がその証拠である)
 我々は未だ昭和を解凍出来ていない。
 つまりは現代日本はそういう世界であり、ヴァイオレットの世界とは程遠い。

 自分は、ヴァイオレットの世界観、つまりアドラーの言う「共同体感覚に満ちた世界」に感動した。
 現代日本では到底辿り付けない、この世界観を京アニは「ヴァイオレットという少女が愛を得る物語を中心にして描いた」と感じ、皆それに感動している、と思っていた。

 例えば、ホッジンズはヴァイオレットに対して「してきた事は消せない」と言う。これは呪いでもあり、祝いでもある。本人次第、である。
 何故なら
  「悪い事をしたと言う事実は消せない」
  「良い事をしたと言う事実は消せない」
 は同義である。
 別の言い方をすると「例え今日、悪人だとしても、明日、善人になってはいけない理由は無い」となる。

 例えば、ギルベルトは幼いヴァイオレットに対し、「君は道具ではなく、その名が似合う人になるんだ」と言う。
 これは「機能論的人間観」から「存在論的人間観」へのシフトを意味している。

 その為、Twiiter上の「死刑」という反応に大変驚いた。
 何故ならこれは「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の世界の否定、と感じたから、である。

 「死刑」とは「存在の否定」である。
 ハンナ・アーレントの語る「赦し」ヴォルテールの語る「寛容」つまり人間らしさの放棄という事である。
 「イエルサレムのアイヒマン」でアーレントはアイヒマンを「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」と表現した。そして最後は「この地球上に生きる事を拒む」と結ぶ。
 ただこの結論に至るまで、アーレントは1冊の本を書ける位考察し、そしてその内容でユダヤ人コミュニティから疎外され、孤立した。
 そして何より大事なのは、アーレントは自身の「人間の条件」を否定した、という点だ。そこまでしてでも、アーレントはホロコーストを赦す事は出来なかった、という事である。
 つまり「存在の否定」とはそういう事なのであり、「菊と刀」の日本人には全く理解出来ない概念であり、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の世界とは全く異なる。

 現代日本にヴァイオレットが居たとしよう。
 我々は彼女に石を投げるのか?それとも手を差し出すのか?
 恐らく多くの人は手を差し出す、と言うだろう。
 しかし恐らく、実際には石を投げる、と思う。
 何故ならば、京アニ放火事件によって、我々が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を否定してしまったのだから。
 そして「自分自身が石を投げられないのはたまたま運が良いだけ」という事に気が付いてない、という事も同時に証明してしまったのだから。

 犯人には、願わくば、誰かの何時かを奪った事に気が付いた、ヴァイオレットの「自分の体が燃えている」という感情を、何時か感じて欲しい。
 そしてそれは「犯人の存在を否定している」我々も感じた方が良い感情である、と思う。


追伸
 そういや、ギルベルト少佐、妻帯者ですよね?
 奥様、どうしたの?

余程の理由がない限り記事は無料です。読まれた方が何かしら刺激を受け、そして次の良いものが生まれてくれると嬉しいです。