京都盆地はフライパン 祇園祭の火
梅雨前線が北に抜けた7月15日、京都駅に着いたのは正午ごろだった。週末の京都盆地は熱と湿気に包まれてさながら透明なガラスのフタをかぶせられたフライパンのようであった。宵山見物に誘ってくれた友人の予定を待つ間、蒸し焼きにされながらも外を歩いた。京都の空にはじっと夏の雲が浮かんでいるが日差しを遮ってはもらえなかった。昼飯の店を探して食べ、東本願寺を見学した。
祇園祭の起源は無病息災の祈念であり、京都の真夏特有の高温多湿を背景とする感染症の大流行が動機にあったようである。この暑さとコロナウィルス流行の残る中での祇園祭には何か特別なものを感じないではいられない。
今年の祇園祭はコロナウィルス流行の制限が解除され4年ぶりに本来の形で行われる。
宵宮祭は山鉾巡業の前前夜に八坂神社で行われる。境内の灯りをすべて消し、浄闇のなかで神霊を本殿から神輿に移す神事である。神事がはじまると本殿から雅楽器の音色や祝詞が聞こえてくる。これから始まる神霊移しにむけて観客の期待が高まる。神官が大幣を振りうなり声をあげて神霊を先導する。白い布がかけられた箱が本殿から運ばれてくる。神輿の前で祝詞をあげ神霊が移される。大変に興奮する行事だった。
さまざまな宗教において神や神の宿った御神体は秘匿されることが多い。宵宮も注連縄で厳重に警備され、灯りは消され、厳かな音楽と祝詞が奏されるが、神霊をみることはできない。
初めから終わりまで全て隠蔽されている。神の存在に説得力をもたせるためだろう。こんなに厳重に祭事がとりおこなわれるということはやはり神は存在しているのだろうと民衆に思わせる。それでも神を疑う者は正体を暴かなければならない。いないことが証明できなければ、いることを否定できない(もちろんこれは一種の詭弁だ)。
神社はとことん秘匿することで神格を守り、御利益を守る。こういう営みが何百年も続いてきたことに思いを馳せる。
宵宮が終わればたのしい歩行者天国に向かう。宵宮祭の前に食事は済ませたからお腹はすいてないが、屋台のにおいや山鉾の灯りや人だかりに当てられて買い食いもしたくなる。
このあとも友人の家でしこたま酒をあおり寝た。
朝9時くらいになるともう太陽が高くなり、また京都盆地は加熱する。せめて涼しいところを目指そうということで2日目は貴船神社に行こうとなった。
貴船口は大変な混雑であった。皆考えることは同じだったということだろう。
貴船神社を往復するバスに乗るまでたっぷり1時間かかった。気温は市内よりも随分と低く、木々が日差しを遮って緑も涼しげで、バスを待つあいだも暑さで苦しいとは感じなかった。古来からの避暑地だというが納得された。川沿いを歩いて貴船神社にお参りする。川床をしている料亭などは予約客でいっぱいなのだろうと察せられて特に入らなかったけれど、川から漏れ出す冷気は格別の気持ちよさであった。
次回来るときは川床も予約しようとおもった。
京都には何回も訪れているがこのような祭に参加するのははじめての体験だった。京都に行くことはそれだけで非日常なのだが、今回はただ寺社仏閣巡りをするのではない本当のハレの日を体験することができた。
誘ってくれた友人に感謝を。
了
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