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「負の音楽論」のために

みたかの弁明

この記事は、「マンドローネ Advent Calendar 2023」のために用意したものである。

しかし正直に申し上げるなら、この記事はマンドローネと一切関係がない。
悲しいかな、私はマンドローネを弾いたことも、マンドローネのいるオケを指揮した経験も殆どないのだ。

確かに、私がボッタキアリを聞き、論じ、愛でるとき、私の頭の中には常にマンドローネの音が鳴り響いていた。

しかし如何せん実地の経験がないのである。

にもかかわらず、下手にマンドローネのことを我が物顔で論じてしまえば、全国のマンドローネ奏者から非難轟々、マンドリン会における私の立場は風の前の塵に同じく消え去ってしまうだろう。

語りえぬものについては,沈黙せねばならない。

ならば、私が語りうることについて語ろうではないか。


私は今年2月に出演した演奏会のパンフレットにおいて、音楽が異質な他者どうしを結びつけ得ることについて論じた。

この記事は、音楽のもつポジティブな側面に着目した、いわば「正の音楽論」であった。

しかしながら、音楽にまつわることすべてが無条件に良いわけではない。

ここでは、音楽にまつわる負の側面について、いわば「負の音楽論」を、徒然なるままに記すことにしたい。

断章

オーケストラ/社会

オーケストラは社会の縮図である――
いつからか、そんな考えが私を捉えるようになった。

アドルノは言う。

そこ〔指揮者とオーケストラがつくりあげる小宇宙のようなもの〕は、社会の諸緊張が反復されて具体的に研究可能となるところであり、それ自体として直接的にとらえることは絶対にできない社会というものの研究に際して、外挿法の適用を可能にする社会的研究対象〔……〕に比べられるものである。

Th. W. アドルノ,1962=1999,「Ⅶ 指揮者とオーケストラ」『音楽社会学序説』平凡社,210.

オーケストラは社会の中の諸緊張を反復する…

差異へのおそれ

オーケストラは微小な差異に驚くほど敏感である。

練習中、少しでも音程が狂っていれば、指揮者から、パートリーダーから、前後の奏者から、指摘(場合によっては注意)が入る。
あるいは、自分の音程が狂っていることに我慢ならず、演奏を中断してチューニングしたりする。

そこには他者の逸脱を鋭敏に察知するまなざしと、自分が全体の調和ハルモニアからはみ出てしまうことへの恐怖とが、表裏一体の形で潜んでいる。

私たちは、秩序から逸脱しないことを内面化している。
そしてそれは、私たち自身の「純粋な」欲望とは限らない。

全体主義の美しさ

ものすごい演奏、というものがある。

圧倒され、全身をズドンと貫くような、迫力ある演奏。
オケ全体が生き物のように感じられるような、うねりのある演奏。
奏者・指揮者・作曲者の思いがダイレクトに届いてくるような演奏。

そして、「心がひとつ」になった演奏。

「心がひとつ」なんてのは比喩である。
人間は互いにどうしようもなく異なっているのであって、文字通り「心がひとつ」になるというのは幻想である。

それでも、弾いているとき、あるいは演奏を聞いているときの感覚として、あたかも「心がひとつ」になっていると感じられることがある。


「全体主義」という言葉を、私たちは知っている。
それも、大抵の人はあまりよくない言葉として理解している。

ところで、「心がひとつ」になったオケは「全体主義」的ではないのか?

「心がひとつ」になった演奏に接したとき、私たちはそれを形容するのに「全体主義」という言葉を使わない。

でも考えてみれば、個々の奏者の差異が目立つような演奏に対して、私たちは決して「心がひとつ」だと感じないだろう。

個々の奏者がオケという全体に奉仕する。
差異は微分され、極小化され、全体の調和ハルモニアが生まれる。

その時「わたし」が全体になる。
全体が「わたし」に思える。


「心がひとつ」の演奏を美しいと思うとき、私たちの精神状態は、意外と危ういものなのではないか。
あるいは危うい精神状態の中にこそ、真の美が潜むとは言えまいか。

全体主義は美しいのかもしれない。
あるいは美しいから、人は全体主義にどうしようもなく惹かれるのかもしれない。

指揮者?

指揮者とは不思議な存在だな、と指揮者を務めながら感じることが多い。

再びアドルノを引こう。

聴衆に対しては、指揮者は宣伝家的・扇動家的なものをア・プリオリにもっている。

(Adorno 1962=1999: 212)

指揮者に対するオーケストラ側の気持ちはアンビヴァレントである。輝かしいできばえを望む気持ちから、一方では指揮者に手綱をしめられることを熱望するが、同時に指揮者は、自分では弾いたり吹いたりする必要もなく、演奏する人たちを踏台にしてでしゃばる寄食者であって、うさんくさい存在である。

(Adorno 1962=1999: 222)

指揮者を務めていた身からすれば、特に2つ目の引用をすんなりと飲み込むことは難しい。
「演奏する人たちを踏台にしてでしゃばる寄食者」とまで言われてしまうと、思わず「そんなことはない!!」と言いたくなってしまう。

だが、実際はどうなのか。

近代音楽はすべて多様性の統合という旗印のもとにある。〔……〕多様性の統一を熱望するや否や、それを御するために、統合をまず精神的に行ない、ついでそれを実現させるか、あるいは少なくともそれを監督するところの、一つの統一的な意識も必要になってくる。

(Adorno 1962=1999: 215)

音楽が指揮者を必要とする一方、同時に、きわだたせられた個人である指揮者は、多声的でありたいものとは逆のものであるがために、また、最もふつうの音楽活動においては一つの意志のもとへの統合が常に不安定であり続けるために、指揮者はこれを補整する意味で、音楽に無縁の特性を発展させなければならず、この特性が容易にいかさま行為に退化してしまうのである。

(Adorno 1962=1999: 218)

指揮者という「機関」の成立神話。

かつて指揮者のいないオーケストラは、「万人の万人に対する闘争」の状態にあった。
各奏者は調和ハルモニアを生み出すために、自らの「自然権」を放棄し、指揮者という虚構の装置を打ち立てる…

即物的・客観的な諸機能を目に見える単一人物においてイデオロギー的に集約することの必要

(Adorno 1962=1999: 218)

指揮者は奏者による共同幻想なのかもしれない。
奏者は、自ら打ち立てたところの幻想を崇拝し、讃え、従う。

あるいはロック的に言えば、奏者には抵抗権があって、指揮者は奏者の《革命》に、いつもいつも怯えている。

ただそれを外に表さないだけだ。

おわりに

最後にあえて、野暮なことを重々承知で、改めて問うてみよう。

私たちはなぜ、他者とともに音楽するのか?


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