見出し画像

「相対的」であることと、「絶対的」であることの狭間で。

「他の人なんて関係ない、自分がどうあるかだ。僕らはみんな世界で一つだけの花」。

 これは「相対的」であるよりも「絶対的」であることの優位性を語っている最たる言葉だ。世界に一つだけの花。元々特別なオンリーワン。
 ただ、偏差値やToeicのスコアなどは「相対的」評価であるので、深く考えるとなんだか微妙だよな、と僕は思ってしまうのである。同じ答えを書いても周囲が賢いかバカかで点数が変わってしまう。めちゃくちゃ「相対的」なんだよな。

「宗教」というものが世の中にはある。神様にすべてを委ねる、あれ。

 ありとあらゆる悩みの解決、不安の解消、生きることの意味を発見、死の恐怖からの脱却と、すでにたくさんのテキストが用意されてはいる。宗教の経典、バイブル、教義などがまさにそれ。そして世界には驚くほどたくさんの宗教があるわけだが、どれが正しいという結論はまだ出ていない。何なら自分たちこそが正しいと、争いを始めてしまったりもするが、未だに誰も「これだ」という正解に行き当たらない。

 個人的な経験談になるが、僕はどっぷりと宗教にはまっている人と付き合ったことがある。一言で表せば、「とても面倒くさい」。例えば財布を落とす。「お祈りを真面目にしなかったからだ」とか言い始める。次からは財布を落とさないように収納場所をバックの内ポケットにするとか、あるいはウォレットチェーンを付けるとかではなく、神様にお祈りするのだって。それで大丈夫なのか、おい。どんな風に生きて、どんな風に死にたい? と訊ねたところ、「教祖様のように生きて死にたい」と答えるなど、重症化がひどかった。
 彼女はいつも「相対的」だった。正解が自分の中にない。
「この料理は美味しいか?」と尋ねると、「あなたには美味しい?」と必ず僕に訊き返す。
「美味しいと思うよ。うん、悪くない。欲を言うなら、もう少し甘さがあれば良い」と返事をすると、「私もそう思う」。
 僕は別に他の人がどう思うかではなくて、あなたがどう思うかを訊いているのだ。
 付き合って三日で別れた。
 すっかり教祖様に洗脳されているわけだから、もちろん「自分の意見」などは持っていないのは知っていたが、相対的ではなく絶対的であることは確かにシンドイ。
 答えを教えてもらうのではなく、自分で探さないといけないのだから。ただ、メシが美味いか不味いかくらいは、自分で判断して貰いたいところではある。

「何のために生まれてきたの?」
「生きる意味って何?」
「私は誰? ここはどこ?」

 そんな悩みは当たり前に、これまで生きてきた人のほぼすべてが考えてきた。先人たちがたっぷり悩んでくれている。わざわざあなたが悩む必要などない。たくさんの答えがラッピングされ、リボンの飾りを付けて並べられているので、あなたが気に入るものを選べば良い。哲学者はその贈り物をあなたたちに残すことを生業としていた。

「絶対的」であることは、時に「明後日の方向に突っ走る」可能性をはらんでいる。それはそうなのだけれど、教祖様や教師様や親御様は、あなたに「進むべき方向」を教えてくれど、「答え」を手渡してくれることは絶対にない。そんなことは誰にも出来ない。
 占い師やら風水師は適当なことを言ったりする場合もあるが、あれは「博打」、「ギャンブル」。当たるも八卦、当たらぬも八卦。あんなもんは特に意味のあることは言っていなくて、四個くらいの選択肢を並べて一個くらいは当たるでしょう、というだけなの、まぁ、意味ないわ。あれを信じている人はどれだけ自分で判断しないのだと、僕はうんざりした気持ちになる。彼らも決して「答え」を授けてくれるわけではない。

 宗教や、哲学や、指導者や、コンサルや、コーチや、教師や、先生や、師匠や、師範や、老師や、部長や、先輩は。
 あなたがあさっての方向に走っていっている時に、正しい方向を示すのみ。

 要するに。
「答えなんかない」ということ。

 僕は思うのだけれど、答えなんかなくても、勝手に年齢は取る。放っておいても誰しもが、おっさん、おばさんになって、おじいさん、おばあさんになる。

 いちいち意味とか目的とか答えを探す必要なんてない。
 僕たちはただ生きているだけ。


野良犬募金よりは有効に使わせて頂きます。