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孤独には耐えられた―ポンコツの高校時代

「貧乏には耐えられる。でも、さみしさは、さみしさには耐えられない」
   
    これはウィキペディアに掲載されているオノ・ヨーコの言葉だが、私とは、その心のありようを巡って、ずいぶんと懸隔がある。それよりも私には、漱石の『心』に出てくる「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此の淋しみを味はわなくてはならないでそう」[1]の言葉のほうが、はるかに説得力がある。ヨーコと漱石。どちらの言葉も真実なのだろうが、私は漱石をとりたい。
    生まれた時から病気ばかりしていつも一人で家にこもりっきり、周囲からキイン呼ばわりされイジメられ、親戚からもこいつはロクな者にはならないと蔑まれ、独りぼっちでいることをむしろ好ましいと思ってきた。完全な孤立状態で人は生きていけないことは自覚しながら、いつも野卑な人間に囲まれてきた私には、彼らから発せられるノイズを我が心身に注ぎこまれることに苦痛と恐怖を感じてきた。そして孤独よりも、貧乏の方がよっぽど耐え難かった。これについて今回は触れないが、かつて我が家が破産同然になって貯金がスッカラカンになったとき、心底生命の危機を感じたものだ。
    この3年ほど、自分の10代20代を、いろいろと思い返すことが多くなった。働いていた時分は毎日それこそ生き延びることに必死で、過ぎし日を思い返している暇などなかった。そこに家族の問題やら職場の問題やらが重なり、心身を疲弊して無職となった暁に、かつての己と向き合うようになったのは、もはや残余の生を享受しうるようになった者の特権なのだろうか。それとも想定外の来るべき、新たな労苦と骨折りを引き受けるための準備なのだということを示す前兆なのだろうか。どちらにせよ、人間は経験(過去)を基にしてしか、生きるヨスガを得られないのではないかと思う。未来のヴィジョンを得るにしても、そこには経験(過去)という踏み台があってこそ、得ることができよう。であれば、後ろに伸びている影を振り返ることは、決して退嬰的な行為ではないだろう。
    さて、今回は高校入学後、大学受験までの日々である。
    病弱で他者とのコミュニケーション能力も致命的なまでに欠如していた私は、どうあがいても真っ当な大人にはなれないと周囲から決めつけられていた。いや成人になる前にくたばるかもしれないとすら言われていた。そんな、どこをさがしても取り得どころか、人並みなところすらまるっきりないと思われていた私が、どうにかこうにかFランではあるが高校に進学するところまで来たのは、今考えても僥倖なことだった。僥倖ということは、自分の実力にかなった結果、ということを意味しない。すなわち次の局面では一層しんどい思いをしなければならなくなるということを意味した。本来高校に入学するだけの学力も、体力も、ついでに言えば他者とのコミュニケーション能力すらまるっきり欠いていた私にとって、高校での日々は、さらなる労苦と骨折りとなるものだった。ただ、中学の頃までと違っていたのは、その労苦と骨折りに自覚的になったこと、自分なりに労苦と骨折りに対処し得るようになったことである。問題なのはその労苦と骨折りは後で触れるように、別の意味では、より安楽な方途を求めるための行為であったということである。だから真の意味での労苦と骨折りとは言えない、ただの逃げ口上であったのだが、当時はああいう発想なり行為しかできなかった。私はやはり、根本的には頭も体も低レベルなガキだったのである。
    4月、高校生として初めて校舎に入った私は、一度下見に来ていたし、受験のときにも来ていたからわかってはいたけれども、まず、その校舎のボロさ加減にため息をついた。校舎だけではなかった。学校内の空気が、とにかく暗かった。集まっている生徒連中が、このボロ校舎に見事にフィットしたというべきか、どう見ても品の良い御曹司に御令嬢の皆様ではなかった。一癖も二癖も、どころか明らかに中学時代は手のかかったゴロツキかスケバンか、はたまた脳みそや肉体に欠陥のある者―つまり私のような―ばかりが集っていた。80年代の映画で『ビー・バップ・ハイスクール』があるが、あれプラス、歴史絵巻に登場してくる粗末な見世物小屋に並んでいる奇形児やフリークスが融合した世界、と言えば、ちょっとはイメージが付くだろうか。校舎の様相とも相まって、おどろおどろしいホラー映画のセットのようにも見えた。初日から私は暗澹たる気持ちになった。
    教職員は教職員で、これまたどうみても教師としての品性も、見識も得ていない連中が大半を占めていた。彼らにとって教育とはいかにクソガキどもを去勢し、己が下僕としうるか、その一点でしかなかった。歯向かう者は容赦なく停学に、もしくは退学にする。教育というより粛清、今風の言葉で言えばリストラがしっくりくる。学問の伝授はあってなきが如きであった。なかんずく酷かったのが学年主任の女で、彼女は秘かに生徒たちからサッチーと言われていた。サッチーというとなんだか愛嬌があるが、実際のところはとんでもない強権的な女であった。そういえば、野村克也の細君もサッチーと呼ばれていたが、私にとってはこっちのサッチーの方がはるかに人でなしに思えた。それほどまでに、彼女は血も涙もない鉄面皮だった。ちょっとでも意にそぐわない生徒は彼女によって徹底的に目の敵にされた。その執念深さは悪魔的でさえあった。ちょっと早いが、卒業式の時に渡されたアルバムの中で、サッチーは「この卒業の折、中途で辞めていった者たちも幾人かいる。彼らの分までこの先も頑張って生きてください」と、いかにも勇壮なことを書き散らしていたときに、私はまざまざと、彼女のいけしゃーしゃーぶりを見せつけられた気がした。「幾人か、かよ。幾人も、だろ。それにおまえが率先して追い出したんだろう?」、と。
    とはいうものの、これらサッチーら教師連中のお陰で救われることにもなったのだから、一方的に悪者にもできないのである。そこが人間の、人間関係の複雑なところなのだ。それは何かというと―
    小学校、中学校とイジメにあってきたことは先回記したが、高校に上がってもそれから逃れることはできなかった。集団とはいつもそうなのだ。弱者を見せしめにし、血祭りにあげることでおのが生存を確認し、且つ己が優位性を確認し、悦楽に浸る。1年の夏頃から、私はとりわけ素行の悪い連中集団のターゲットにされることになった。授業中にノートやシャーペンを隠され、背中を小突き回され、行き帰りにツバまで吐きつけられた。階段から突き落とされることまであった。ヘタレな私は誰にも言うことができず、陰鬱に沈んだ日々を過ごした。小学校中学校の再現であった。
    イジメはその年いっぱい続き、翌年のはじめまで続いた。ところが今回も、ひょんなことからその解決へ一気に傾く事件が惹起した。確か一学期に一回開かれる学年総会で体育館に全員集合していた時だったと思う。例によって私にちょっかいを出し、小突きまわしていた連中の現場を、たまたまサッチーが発見したのである。サッチーは目を吊り上げ、全校生徒の衆目の中、「貴様ら何をしている」と言い放ち、たちまち当該連中を起立させ、他の教師連中を指揮して連中と私を、職員室に連行し尋問が開始された。最初は何もしていませんよと言い逃れをしていた連中だったが、体育担当の男―彼は柔道部の顧問でナリもデカいが凶暴さでも頭一つ抜け出ていた―が、一人の生徒の顔をいきなり張り倒した。他の生徒は途端にビビり上がった。すかさず、サッチーがこう言ったのである。
「ちょうどいい見せしめになるわね。腐った蜜柑はこの際全部放り出しましょう」
    この時の彼女の表情からは、何も読み取れなかった。メイクしていたこともあったのだが、肌が異様に白くって、生気も全く感じ取れなかった。私は恐怖を感じた。イジメを受けていた時とは明らかに異なる恐怖。あの時の職員室の雰囲気には狂気があった。
    私にも聴き取りが行なわれたが、ただただ事務的に、事の経緯を聞かれただけであった。尋問はこの日のイジメから次第に、過去のイジメにまで追求がされるようになり、どんどん時間が伸びた。結局、解放されたのは夜の10時を回っていた。終わりしな、サッチーはイジメを起こした生徒連中に向かって、冷ややかに一言、
「明日から当分、学校には出てこなくてよろしい。追って沙汰します」と言い放った。そして私に向かって、
「家には連絡をしておきました。あなたは明日、いつも通りに登校するように」とだけ命じた。そこにはイジメを受けたことへの憐れみも、尋問に長時間拘束したことへの詫びもなかった。
    翌朝、イジメをしてきた連中の姿はなかった。彼らのうち何人かは一週間の停学となり、その後の成績評価―中学でいうところの内申書―でもペナルティーが課されることになったと聞いた。つまり定期試験で良い点数をとっても成績ポイントは間引かれ、大学受験の際にも推薦が取れないといった措置が彼らには施された。一人か二人はあまりに反抗的な態度を教職員に取っていたということで退学処分になった。イジメに加担してこなかった連中―彼らは見て見ぬふりする傍観者であり、私に言わせれば共犯者であったが、直接イジメに加担していなかったから罰を免れた―は私を恐れて近づこうとしなくなった。下手なことをしたら停・退学者と同様の目にあうと判断されたのである。イジメを受けていた時もボッチであった私だが、イジメから表面的には解放されても、ボッチからは解放されなかった。この一件で、高校卒業までボッチでいることが確定となったのである。いやこれは私にとって幸いなことではあった。少なくとも私の日常を脅かすものがいなくなったのだから。換言すれば、己が身の安全の確保の代わりに、残りの高校生活を孤独のまま過ごすこととなったのである。
    小学校のときも、中学校のときも、私は教職員によって学校でのイジメの被害から救われた。今回もまた、学校の教職員の計らいで、イジメから救われた。だがこの時の私は初めて、強烈に思い知らされたことがある。それはこれまで得てこなかった気付きであった。いや気付いていたのだが、余りにも漠然としていたといってよいだろうか。それは、イジメをする奴(ら)も、イジメを告発し、それを粛正する教職員たちも、権力を握って行為に及んだということである。権力は群れを成し、少数のもの、弱きもの、小さきものを、容赦なく蹂躙する。イジメをした連中然り、それを粛正した教職員たちもまた然り。あのとき、職員室で私が見たのは、より強大な権力が、イジメをしてきたはるかに小さな権力―彼らもまた、小さきものだった―を潰していく過程であった。そこには人間的な温もりは露ほども感じ取れない。そして、権力は特定の思想信条に、イデオロギーに、個人の人間を否応なくがんじがらめに囲い込み、窒息させ骨抜きにする。その流れに巻きこまれたら、個人の意思ではどうにもならない。ただただ、流されていくだけになる。さらに重要なのは、権力が権力を行使するのは、被害を被った者への配慮からではない、おのが権力を維持し、増進させるために行使するのだということ、救済されるものも、権力の維持・増進のためのツールである、それを思い知らされたのである。尋問の際、教職員たちが私にとった極めて事務的な態度。そこには血も温もりも通っていなかった。サッチーの、あの真っ白な顔。彼女が生徒たちに向かって発した「腐った蜜柑」の言葉。テレビの金八先生で有名になった言葉だが、サッチーの声から発した「蜜柑」は何十倍何百倍も苛烈な響きがあった。
「あいつ、まんまとセンコーどもを味方にしやがって。恐ろしい奴だよ」
    クラスにいた一人が、隠れてこそこそと私のことをこう言っていたことを、私はいまだに記憶している。他の生徒連中から私は、権力に取り入りおもねった腰抜けとみなされた。イジメからの解放は、新たなる疎外を生んだ。私自身は仕方ないとあきらめていた。同時に、集団で成す動き、善行だと称して近づいてくる動きに抜きがたい不信の念を持つことになった。権力を持っていない小さきものも、集団を成すと権力を持つ。権力は自らの思想を善だと称してそれを強要しにかかる。こうした一連のシェーマから出来るだけ逃れよう、関わらないようにしようと心に誓った。高校1年の終わり。もうすぐ16歳になろうとする私は、少なくとも何も考えない呆けではいられなくなっていたということか。
「またつまらんいじめか。え、尋問?そんなことやったの?そりゃあ大ごとだね」と母は、呆れた顔をするだけだった。まるで他人事であった。息子がこれまで酷い目にさんざんあってきたというのに、そして家で鬱々としていたというのに、さらには夜中に帰ってきたというのに、彼女は全く気にもしていなかったのである。息子が小学校からイジメにあっていたことは知ってはいた。だが、そんなものは他愛ないガキの戯れとしかみていなかった。そして今回の件も、「そんな。子供のくだらない行動に。何で大人がそんなに目の色変えるのよ」と取り合わなかった。父はこの時家にいたのか、記憶にない。おそらく、また外泊していたのだろう。
    我が家庭の中は、もうすでにこの時点で崩壊していたのかもしれない。
    母は、息子の大学進学はあきらめたようであった。高校では一定の成績をとれなければ大学への推薦は取れず、取れなければ一般入試でとなると、私の学力では到底受かるわけがないからであったが、一学期二学期の成績を見て、「こりゃだめだわ」と放り出したのであった。
「もっと幼い頃から、それこそ右も左もわからない時分から、塾に行かせるべきだったわ。そうすれば手も掛らなかったでしょうに!」中学2年の頃1年間ほど、私は無理やり塾に行かされていた。塾に行かせないとどうにもならない、高校入学など絶望的だし、万一受かっても高校の勉強についていけるわけがない、となると高校中退~大学なんて夢のまた夢だからという母の判断だったのであるが、全くやる気の出ない私は無断で塾をさぼりまくった。さぼると当然、塾から家に電話が来る。街中をぶらぶらして夕刻に帰ると、母から烈火のごとく怒鳴られ、こちらも怒鳴り返す。時に取っ組み合いまで演じる事態となった。父はそんな母子の醜悪な姿をせせら笑って見ていて、私に対してこう言うのみであった。
「愚図の呆けは、何やっても、だめだよな」
    結局、塾の方からも無断欠席ばかりで面倒見切れないと、退塾処分とされた。以来、私は塾の類いには、一度も通わなかった。母はこの時点で息子に愛想をつかした。中学3年になり、当時の担任の尽力―その実は己が点取り合戦であるのは先回記した―で何とか高校に入学したことで、どうにか中卒止まりでなくて済んだと彼女はほっとしたが、高校以降の息子の先行きについては、もう関心を無くしてしまった。ある意味、自分勝手で歪んだ見栄を、ようやくこの時点で捨て去ったともいえた。その反動からか、夫、つまり私の父と競い合うように、己が遊興に一層耽るようになった。家でもほぼ完全に、私はボッチに、孤独になった。皮肉なことに、1歳の時から続いていた喘息は、高校時代でほぼ止んだ。母と父という、私にとって原初的なストレスとなる存在がほぼ、家にいつかなくなったことで、喘息が改善されたとしか思えなかった。そしてもうひとつ。心的ストレスが軽減されたことで頭の回転が良くなったのか、私は塾に通わずとも高校を中退することなく済み、かつ大学にも進学を果たしたのだった。
    我が高校は歴史だけは古かったが、名にし負う貧乏高校であった。校舎は間違いなく創業当時からある木造で、冬になると隙間風が吹いてきて、寒いったらなかった。教室の隅っこには産業革命の前からあったのではないかとさえ思われたダルマストーブがあって、用務員の爺さんが朝夕練炭を運び込んでいた。練炭なんてものを、私はこの時初めて見たのである。ストーブの性能は悲しいほどの低さで、あったまるのは最前にいた数人の連中だけであった。奥の方の席は容赦なく冷え切り、窓から寒風が容赦なく入り込み、とてもまともに授業など受けられる気分になれなかった。いや、あったまる方も大変であった。あったまり過ぎて、頭がぼうっとしてくるのである。授業中、前にいる生徒はたいがいが眠り込み、その他の連中はガタガタ震え、ハナを垂らしていなければならなかった。その年の学校では、そのせいもあってかインフルエンザが蔓延した。現代ならインフルにかかった生徒は、1週間は強制的に自宅で休養となるだろう。ところが時代は80年代前半の、貧乏にしてFランな高校である。ハナを垂らそうが、インフルになろうが、教職員は知ったことではないという態度を取った。そのくせ無断で休むことは厳禁とされた。かならず正当な理由となる書類の提出~この場合なら医者の診断書~を義務付けられた。ある意味矛盾ともとれる学校側の対応だが、これについて、父兄からは何のクレームもつかなかった。いやついていた。他のことでも、教職員に関すること、学校運営上に関すること、などなどで、いろいろとクレームがついていた。だが学校側でもみ消していたのだ。目障りなクレームをする生徒やその親は、逆に返り討ちとばかりに学校側から危険分子扱いされ、やがて生徒は退学処分となった。あれはいつだったろうか、サッチーがこう言い放っていたことがある。
「あなた方が入学の時、親御さんから私たちの指導に全面的に従うと確約をとっています。ですから不満があっても、それを解消することはあなた方には不可能です。どんな不満でもです」
    親御さんとの確約。それは公的な威力を断じて有さなかった。きちんと書面で交わしたわけではなかった。単に、最初の保護者会議でサッチーが口頭で伝えただけだった。それもかなり「ボカシ」て。母が最初の保護者会議に出席した時のことを、私にこう語ったのである。先回、数学のことで恥をかいたとしてぷりぷりしていた、あの時である。
「あの学年主任。なに偉そうに。皆さんの大事なお子様、きちんとお預かりしますだって。歯の浮くようなセリフ。嫌になるわ」人の言うことに対して、何かにつけてケチをつけることを生きがいにしていた女であった母である。サッチーが実際に「不満があっても・・・・」という意味の文言を発したら、ここぞとばかりに突っ込んでいったに違いない。とはいえ、産業革命時代のストーブでは教職員がしんどいということになったのだろう。私の学年が2年に進級したときに教室の一部が改築され、電気ストーブが置かれることになり、暖房はそれなりの改善をみた。だが、ボロ校舎は相変わらずだった。
    私の数学の能力は高校に上がっても、まるっきり上達しなかった。定期試験では何度か赤点をとって、すわ落第かということもあった。だがそこはFラン高校というべきか、やがて学校側も私の数学に関してはさじを投げ、赤点であっても及第させるようになってしまった。体育も相変わらずの低空飛行であった。担当の教師―職員室でイジメの生徒を張り倒した、あの男であった―は最初、「おまえはほんとに、どうしようもないな」と蔑みの態度をあからさまに示し、他の生徒たちもまた、私を嘲笑した。本来なら毎学期、これまた赤点のところであったのだが、上と同じ理由で、ぎりぎりのところで及第になり続けたのだった。周囲の者たちは私がエコヒイキされていると陰口をたたいたが、大っぴらに言おうとはしなかった。言おうものなら今度は自分たちが粛清される恐れがあったからである。私は無視した。無視していれば面倒なことにはならないで済むからであった。これで私が教師連中にチクれば、陰口を言った生徒がお咎めを食らい、ほれまたあいつはセンコーと・・・・となって、歯止めが利かなくなったろう。少なくとも身体的物的暴力は被らなくなったのだから、これでよしとしなければならなかった。だが、私の憂鬱は晴れることはなかった。おぞましい教師連中に生徒連中。これらに囲まれて3年間の高校生活を送ることは、変わることはなかったのである。
    それでも、私は高校3年間をやり切った。生徒連中とは一切なれ合いをせず、表面上は一切もめ事は起こさず、教師連中ともつかず離れずの態度を努めて取りつつ、卒業することができた。「孤独には耐えられ」たのである。卒業だけではない。大学への進学も果たした。母から「おまえに大学進学は無理だわよねえ」と露骨に言われ続け、今思い返してみても我ながら認めざるを得ないほどに、酷い学力であったのに。
    ボッチ、孤独と記したが、完全なる孤立にまでは至らなかったのも、事実としてあった。矛盾するようだが、学校生活上、最低限互いに協調しないと、生徒全体に類が及ぶことは、さすがに皆わかっていた。また、私の一件があってから、他のイジメにあっていた幾人かの生徒も解放され、彼らから感謝されたのである。もちろん、それで仲良くなったわけではない。常に私の中に、彼らもまた群れを成せばどうなるか、という警戒があった。私自身が群れを成すことを意識して避けた。イジメを受けていた彼らとは、他の連中よりは友好的な関係をむすべたが、プライベートの域にまでは踏み込まなかったし、踏み込ませなかった。予期していたことだが彼らの中で小さなグループがつくられ、常に寄り集まって行動しだした。だが私に対して気兼ねが働いたか、私には必要以上の接触はしてこなかった。そのうちの一人はザ・スターリンの『虫』を持っていて、それがきっかけになって私がザ・スターリンの虜になったことは、かつて記したが、彼ともそれっきりであった。
    高校入学当初、大学進学に関しては、特にこれと考えてはいなかった。卒業後の進路も、確たるヴィジョンはなかった。真剣に意識されるようになったのは、たぶん2年生になった夏頃からではないか。当時の担任から、数学と体育は問題だが、他の教科と斟酌すれば、大学の推薦が取れると言われたのである。確かに、上の二教科以外は、1年の三学期と2年の一学期にはそれなりの成績をとっていた。これまたエコヒイキだと、他の生徒からは思われていたが、それはあっただろう。教師側とすれば、あれだけの手練手管でイジメから救ってやった生徒がむざむざ落第し、それがきっかけになって私がやる気を喪失し、中退となっては面目丸つぶれだからである。だが、エコヒイキばかりでもなかったのである。高校に入って、私なりの努力もあった。いわゆる型通りの勉強ではない、それこそ多分に手練手管ではあったが(数学と体育だけはどうにもならなかった)。中学時代までは、まるでその手の努力をしてこなかった私は、高校に入ってようやくそれをするだけの頭を有するようになった、ということだろうか。先回国語と英語の入試でほぼ満点の点数を取ったと記したが、入学後もこの二教科は、定期試験で良い点数をはじき出すことが多かった。毎回ではない。1年生の一学期、英語の成績は素の実力通り、及第点ぎりぎりとなった。この時の担任―2年3年のときとは別の男であったーは「おまえ、入試のときは満点に近かったのに、何だこのざまは!」と勝手に腹を立て、毎年夏に実施されている補講に無理やり入れさせられてしまった。では、この補講とは何か、ここで少々説明しておく必要がある。
    高校では毎夏、休み期間の半分は必ず、補講なり特講と称された授業があった。補講は成績不良の者が、特講は成績優秀者が、というのは建前で、成績がそんなに悪くなくてもよくなくても、全生徒が強制的に何らかの授業を受けさせられるのであった。Fラン高校であったのにそんな制度があったのは、かつて高校の風紀が乱れに乱れ、それを矯正するために取られた策であったらしい。加えて80年代当時、全国各地で校内暴力が社会問題視されたことも相まって、我が高校は一層補講特講に力を入れるようになっていた。私も数学の補講を1年から3年まで。そして英語の補講を1年のとき、特講を2年と3年のとき受けさせられた。数学はもう言わずとも明らかだろう。さて、2年3年のときに英語では特講となったのは、2年になって最初の中間試験、そして期末試験と2回連続してクラスでトップの点数をはじき出してしまったからである。何故そうなったのか、今でも不思議でならない。2年の担任であった男は「クラスでトップだったんだから、当然だよな」と、その年の特講に強制参加とされてしまった。3年になったらなったで、時の担任が「来年受験だから、受けるわな」と、有無をも言わさずであった。夏期講習の内容は、ただただバカバカしいと言うしかなかった。どこかの出版業者が出している、無味乾燥な内容の問題集を毎回やらされるのである。教師は生徒の解答に、これはよし、これはダメと言いつつ補足説明を加えるのだが、説明がまた、あくびが出るのをこらえるのに必死になるほどの締まりのなさ、退屈さに満ちていた。いや夏期講習だけではなく、普段の授業も基本的には同じようなものだった。アダム・スミスは『国富論』で、18世紀イギリスの大学の講義は実に退屈で、教師たちの姿勢は惰性と倦怠に満ちており、それなのに教師たちは自らの権力を行使して学生に出席を強制する、これだから大学教育はいつまでたっても沈滞したままなのだと、当時のイギリス教育事情をこっぴどく批判しているが、我が高校の授業はまさに、その再現というべきものだった。かくも杜撰(ずさん)な授業であったのに、欠席は決して許されなかった。しようものなら先に記した病気の時と同様、その正当性を証明しうる書類の提出をさせられ、その書類も学年主任のサッチーが気に入らなければ何度でも再提出を命じられるのであった。そんなに生徒を拘束したいのなら、もうちょっと実のある授業をしてくれよと言いたくなるところだが、教師たちにその気は一向になく、歯向かおうものなら、停学~退学だとちらつかせて脅し上げるばかりだった。我が高校ではそれが当たり前だとされた。そして毎年何人かの生徒が学校を去った。まるでどこかのファシズム国家のようだが、こんな高校が80年代当時、堂々と存在していたのである。
    成績の話に戻ると、国語は英語以上に、コンスタントに良い点数を試験のたびに取っていた。私の手練手管の話はこの国語から始まる。中学の時は試験の答案を返されるたびに、「これじゃあ、オトナになってから苦労するわな」と教師から嫌味を言われっぱなしになっていたものだが、中学の時の試験問題は漢字の書き方とか、〇✕式の問題が多く、つまりは融通性がきかなかったといえた。高校では、当時の国語の教員が出す試験は中学のときとは異なり論述式の問題が大半を占めていた。例えば太宰の『晩年』の、この箇所での語り手の心情について想定出来得ることを挙げよ、そして挙げた理由も論ぜよとか、そんな問題がよく出された。私の家には物心ついた時から古いオムニバスの全集やら文庫本が置いてあって、そこに芥川に太宰、鴎外ら文学史に名を遺す作家の代表的な作品が収録されており、それらに親しんできたから、問題に出された小説作品には既に馴染みのものが多かったのである。だから小説評論めいたことは「要は読書感想文を書けばいいんだろ」とばかりに抵抗なく書けたし、〇✕式と違って論述式の問題は、ピントがずれていてもたくさん書いておれば、点数をたくさんくれるという目算が私にはあったのである。小説以外の、例えば丸山眞男の「であることとすること」についてやはりその所見を述べよという問題については、岩波新書の『日本の思想』ですでに知っていた。内容はもちろん、馬鹿な高校生には理解できるはずもなかったが、「八紘一宇」とか「タコつぼ」などのフレーズはアタマに残っていたから、それを適当に組み上げ、そこに別の丸山の本に載っていた「学問における坊主と在家信徒」の話を盛り込んだりした、でたらめなエッセイ風の雑文にして提出した。それを担当教師がまた面白がって高い点数を付けたのである。
    しかし、国語だけいい点数をでは心もとない。他の教科でも私なりの手練手管を用いるようになった。
    高校には美術の授業がなかった。絵とか彫刻とか、手先の不器用な私にとってはお手上げであった科目が最初からなかったのは幸いした。音楽の授業はあった。歌のレッスンはもう、勘弁してくれという案配で、誤魔化しはきかなかった。1年の時だったか、「マイ・ボニー」の歌唱指導をさんざんやらされた。時には一人で歌わされたこともあった。私の声域は大変狭くて1オクターブも出ず、声量も乏しくて、何度歌わされても、てんで歌にはならなかった。ただ音楽評論の授業のときにはここぞとばかりにでっち上げとハッタリをかました。例えばドボルザークの『新世界』について感想を記せという試験が出た時は、「新世界といったって、今やこの作品が旧世界の産物ではないか。実に皮肉だ。これはミイラ取りがミイラになった手本だ、ひょっとしたらこのタイトルは後代のためにつけたのかもしれぬ。いや我を他山の石とせよ、一つ所にあぐらをかいていてはいかんぞという意味で」などと屁理屈を述べ、それが教師に面白がられて音楽の成績は存外良くなった。
 社会科では2年生のときは日本史であった。この教師は試験だけはやたらと厳しい男で、点数を甘くしてはくれなかった。但し自由研究のレポートを提出すればポイントは上がると言われていた。自由研究ならばテーマは何でもいいのだなと確認をとったうえで、毎日の新聞から気になった記事を切り取りスクラップブックに貼り付けて、そこにコメントを書き加えることにした。新聞を読むことは立派な社会研究である、つまり社会科の授業に資するという建前を通した。まあこの場合は読むというより眺めるといったほうが正しいが。例えば当時のロスオリンピックの女子マラソンで、あるランナーが脱水状態の上に熱中症に陥り、ふらふらになりつつも完走を果たし、会場は感動に包まれたという記事が載った。ひねくれ者の私はそこにこうコメントを加えた。「国家を背負っての完走は、一見美しいとみなされるだろうが、一歩間違えたら彼女は死んでいただろう。彼女やスタッフはその体を慮って棄権するようにすべきではなかっただろうか。戦場で死んだなら英雄になるのかもしれないが、平和の祭典たるオリンピックで死人を出しては、むしろ国家の威信に傷がつくであろう」高校の成績は10段階評価で行なわれたが、この時の学期では、確か9だったはずである。
 遡って1年の終わりに社会科で、歴史上の人物についてレポートを提出せよという宿題が出た。私はたまたま本屋でヒトラーにまつわる本を手にとってちょっと読んでみて、これは面白いとその本を買い、さらに2,3ヒトラーに関する本を図書館で読んでから、こういう結論の報告をした。ヒトラーは確かに歴史上の大悪人だが、その一方で、アウトバーンやフォルクスワーゲンなど、ドイツ経済に貢献するものもたくさん残している。経済ばかりではない、ベルリン・オリンピックでは記録映画も残した、あれはアート史に残る傑作であると共に、建築や映像の技術革新にも大いに貢献した。歴史的評価は片一方ばかりに偏ってはいけない、そこには常に複眼的視点がなければならない、と。社会科三学期の期末試験の点数はお粗末なものだったが、成績評価にはこれまた9が付いた。
 次に、英語について一言しておきたい。教科書はまともに読む気にはなれなかった。とにもかくにもつまらなくってならず、教師の授業振りはそれに輪をかけてつまらなかった。当然試験の点数は芳しくなく、だから1年最初の学期は妥当な成績なのだった。それが三学期から一気に上がったのは、例のエコヒイキだけでなく、ここでも試験以外にレポートの自由提出があったのである。英語の教師からは、レポートの中身を楽しませてくれたなら、試験の点が悪いときにはチャラにしてやると言われていた。ところがなにせFラン高校である。レポートを出す奴なんぞほとんどいなかった。たまにいても、教師の方でダメ出しを食わすだけだった。「だってそうだろ?余計な仕事なんだから。楽しませてくれないとな」教師の方も生徒をなめ切っていた。私も最初は出す気はさらさらなかったが、ちょうどこの年の秋、ジョン・レノンの『ジョンの魂』にのめり込んでいて、その歌詞の簡潔さに、俺でも判ると感激していた。そこでふと、歌詞を自分なりに訳して提出してやろうと気まぐれを起こした。『ジョンの魂』の歌詞は、おそらく辞書さえあれば、中学1年か2年くらいの学力があれば誰でも読めるくらいの簡単な言葉と文法が並んでおり、私でもどうにか訳せたのである。それにしても何故、こんなことをやろうと思ったのだろう。よほど『ジョンの魂』に感激したのもあったろう。だが他には、当時のイジメからの鬱屈した感情を、ジョンの言葉を借りて外にぶちかましたい欲求があったのだ。もちろんジョンの言葉は私の当時の境遇を歌ってはいないけれども、深層心理的な部分では、ジョンと私のそれは案外、同じベクトルを持っていたのではなかろうか・・・・と大胆なことを考えてしまう。それはともかく、二学期最後の授業で、私は教師にレポートを提出した。
「ああ、これな。もう2学期の成績は固めてしまったからな」
(なんだよ!)私はむかっ腹がたったと同時に、がっくりきた。
「まあ、読んでおくよ」気乗りしない様子で、教師はすたすた去ってしまった。私はこりゃあだめだとあきらめていた。それから3か月して、三学期の成績が、いきなり10になっていたのには驚いた。そしてあのレポートを思い出し、よしこれだと味をしめてしまった。以後、定期試験の点数が思わしくない時は、ロックのレコードの歌詞を訳して、提出するようになった。その頃ドアーズの『まぼろしの世界』というアルバムを熱心に聴いていたのだが、あのレコードには何故か対訳が付いていなかった。そこで辞書を引き引き訳し、全曲出来たところで提出した。そんなことをやる暇があるなら教科書を読めと言われそうだが、そちらはてんでやろうとせず、ドアーズの歌詞とばかりにらめっこしていた。2年生の二学期は中間も期末も点数が悪かったから、これでリカバリーしようとしたのである。結果はこれまた10をとった。
 何故、私の各教科への、こんな勝手気ままな取り組みに対して高い成績評価がなされたのだろうか。高校側としては、私を成績優秀者に仕立て上げ、大学の推薦をとらせる、それを他の生徒―特により下の学年の者たち―に見せつけることでそれ見ろ、我々の庇護の元、この生徒は実に優秀な人間になった、だから貴様らもおとなしくやらんといかんのだと、プロパガンダする思惑が一番にあった。そしてもう一つ、教師連中にいい加減な人間が揃ってもいたのである。だからこそのFラン高校ともいえた。
 私は体制側への警戒と嫌悪の姿勢を持ちながらも、こうした成績~試験対策をやってきた。体制への迎合には違いないだろうがと言われればそれまでである。だが、ひとつ心掛けていたのは、試験にしろレポートにしろ、内容はともかくとして、答案は真面目に記したということである。ふざけた内容の解答は書かなかった。教師はどいつも気に入らなかったが、そんな連中に対しても、私自身は真面目な人間であることは示そうと努めた。不真面目な奴、だらしない奴だとは思われたくはなかったのである。しかしそれと勉強を素直に取り組むのとは、また別でもある。教科の勉強はまともにやる気には、とてもなれなかった。生徒を脅し上げることを最優先課題とする教師連中の授業など胸くそ悪いものであったし、だいいち連中の授業は教員免許を取ったのかと疑わしくなるほどに杜撰であることは、学問にはド素人な私でも判ったくらいである。それでも、どうにかそれなりの成績をとってやろうと思うようになったのは、このまま卒業して就職することになったら、体力もない、手先も不器用な私ではとても使い物にならずお払い箱になるだろう、それならばとりあえず進学して社会に出るまでの時間稼ぎにしよう、よりたやすく進学するには入試の推薦を得ることである、と思えるようになったからである。
 母はびっくりしていた。息子が大学に行けるなんてもうあきらめていたのだから。
「そりゃ・・・・。受けるでしょ!」母は、瞳孔を開きっぱなしにして声を張り上げ、
「でもまあ、Fランでしょうけどねえ」と嫌味を付け加えた。彼女にしてみれば、辛うじて自己の面目は果たせたところだったのだろう。
 こうして大学受験は決まったが、そのための勉強は、やはりと言うべきか、まともにやりはしなかった。毎日いけ好かない教師にいけ好かない生徒と顔を突き合わせていなければならないだけでも苦痛なのに、その上勉強なんてクソでしかなかった。精神的なことばかりではなかった。喘息の発作はほぼ、出なくなっていたけれども、毎朝起きて、家から2キロ離れた駅まで移動し電車に乗ることがしんどくてならなかったのである。特に夏は、呼吸器系の弱い私にはきつかった。それでも入学以来一日も休まなかった。高校は嫌いでならなかったのに、どういう気まぐれか、皆勤を続けていた。3年になったばかりのある日、担任からいきなりこう言われた。「推薦は二学期中に取るから、一学期まではこのまま皆勤しろ。それなら成績のポイントを上乗せしてやる。成績が良くなるほど、試験の採点も甘くなるから」何故担任がそこまでやったのかというと、実は彼の母校が、くだんの大学だったからである。大学とのパイプを少しでも太くしておけば高校のハクが上がる、ひいては自分のハクも上がるという理由で、私に焚きつけたのだ。それを裏付ける発言を、あのサッチーが私にしたのである。「あの大学への推薦実績が上がれば、それだけうちの宣伝になるでしょ。大学に行く生徒が増えれば高校のレベルも上がるというものよ。××先生―担任である―も鼻が高いでしょ。あの人が校内で力を強くしてくれたら、さらにうまくいくわ。だからあなたも頑張りなさい」わざわざサッチーが、こんなことを私に話したのも、私が教師たちの下僕であることを改めて思い知らせるためだった。イジメの時助けてやったのだから、わかっているわよね、というわけだ。そう、ここでも私は教師の点数取りに利用されたのである。それを知りつつ私は高校へは皆勤で通した。いや卒業まで一日も休まなかった。一学期が終わり、推薦云々が終わってしまえば皆勤なんてどうでもよかったのだが、そこは律儀というべきか。ところでこの担任の男だが、後年彼は我が高校の校長になった。さぞかし高校からくだんの大学に、大量の推薦者を出したものとみえる。
 私は体よく利用され続けたが、屈辱には感じなかった。その代わりこっちも美味しい思いをさせてくれとばかりに楽をして大学に行く方途を求めたからである。ある意味ウィンウィンの関係だと割り切ることができた。だが、高校時代のこうした「ずるい」―別な意味での労苦と骨折りな―生き方が、後の人生の足枷になったのもまた、事実だろう。今のわが身のポンコツぶりを見ると、つくづくそう思う。あのとき、なにがしか困難な道を、あえて選んでいれば、後になって胆力になったのではないか。いまさらもう手遅れなのだが。
 さて、私の大学入試だが、推薦を勝ち取り、その年の暮れに試験を受ける身となった。3年一学期はどの教科も成績が大幅に上がっていて、思わず吹き出してしまった。どう考えても正当とは言えない成績評価であったわけだが、下手なことを言いだすのもはばかられるので、黙っておいた。
 試験当日はすさまじく寒く、今にも雨か雪か、というほどの、どんより曇った空の元、大学構内で行なわれた。高校よりはましであったが、その日の空に等しい陰鬱な汚らしいコンクリートの壁に四辺を囲まれた教室は寒くてたまらず、そのくせ暖房がちっとも効いておらず、そんなにもカネに困っているのかとウンザリしたものであった。まああんまり効きすぎてもかえって頭が呆けて試験に障りが出てもいけなかったのだが、私としては早く解答を済ませて帰りたくてならなかった。高校受験と変わらぬ心境だった。
(何で受験の時はいつもこうも寒いのだろう!)これは理不尽だと思い、ハナを垂らしながら試験問題に向かっていたのであった。
 試験は国語と英語のみであった。苦手の数学がなかったこと、さらには面接もなかった。これだけでも相当なアドバンテージといえた。試験の内容は記憶にない。簡単だったのか難しかったのかも憶えていない。ただ、受かるだろうなと思った。担任の母校であったこと、他にも何人か推薦を受けていた者がいて、彼らは皆、教師連中からの受けが良かったこと、これらを総合してみて、受かるだろうと踏んだのである。結果、推薦を受けた我が高校の者は、私も含めて全員合格したのだった。
 現在、学校は転居し、元の場所には商業施設が立ち並んでいて、当時の面影は、もうどこにもない。20年くらい前になるだろうか、仕事の関係で、取り壊し直前の校舎を訪ねたことがある。あの時の木造校舎がまだ残っていたのには驚かされた。施設のいくつかは多少なりともリノベーションされていたが、みすぼらしいことに変わりはなかった。いやむしろ、いっそう惨めったらしくなっているように思われた。なんでも全面リノベーションする必要に迫られているほど建物の老朽化が進んでいて、しかるにカネが足りなくてそれが果たせず、困っているところにとある企業がけっこうな金額で土地を買い上げてくれ、そのカネでもって地価のより安い田舎に、新しく校舎を立てることになったのだそうである。校長先生は3年の時の、あの担任であった。定年も間近であるという彼に、私があの時はいろいろと、と話すと、彼はぼそりと、「もう、ずいぶんになるよ君」と返したきりであった。
 新しい校舎にも一度、訪ねたことがある。高校生当時の私の心身であったら果たして通いきれただろうかと思われるほどに、我が家から遠く離れた場所に建てられていた。ただその設備には隔世の感があった。以前の土地はよっぽど高く売れたのだろう。でなければ、これほどの設備をあつらえることはできなかっただろう。冬にハナを垂らす心配はなくなっただろうと、私は思った。
 去年(2023年)廃刊になった週刊朝日のある号を眺めていて驚いた。そこには前年(2022年)、よくその名を知られた大学からそうでないものまで、実にたくさんの大学へ我が高校から進学していることが、他の多くの高校と共に記されていたのである。これまた隔世の感がある。今や大学全入時代なんだなと、実感せざるを得なかった。もう、いくらなんでもあんなモグリのような授業はしていないだろうなと、苦笑してしまったことを付け加えておこう。
 あの時の教職員連中は、そして一緒に教室にいた連中はどうなったのか、どうしているのか、今はとんとわからない。ついこの間、日本史担当の教師が亡くなったと風の便りで聞いた。生徒を張り倒した体育教師は卒中で死んだという。
 サッチーはどうしているのだろう。彼女ほどの権力を学内で有していれば、ゆくゆくは校長職の座を手に入れて然るべきであったのに、私の知る限り、彼女はついにその職に就くことはなかった。当時は今と比して男女の雇用格差はより大きかったから出世できなかったんだという意見が出てくるだろう。それも一理あるだろうが、あれは2年の夏休みに入る時であったが、サッチーがひと月ほど入院すると聞いて、生徒全員が驚きの声を発した。鉄面皮サッチーが入院なんて誰もが想定していなかった。口の悪い生徒は「ざまあみろ。どうせならそのまま死んでしまえ」などと影で言っていた。もちろん死にはしなかった。二学期にはいつもの如きサッチーとして私たちの前に君臨していた。しかし案外深刻であったのかもしれず、それもあって校長への出世の道が閉ざされたのではないか。彼女の肌の色の異様な白さは、病気と無関係だったとは断言できないだろう。さらに、彼女の生徒への、あの冷徹な態度も、己が健康状態の裏返しだったのではないか、いや、そもそもいわゆる女性的な弱さをひた隠すためのポーズだったのではないか。
 もう少し、サッチーにまつわる記憶をここに書きとめるのを許していただきたい。もう卒業も間際であったか、あるいはもっと前であったか、その辺は判然としない。憶えているのは、彼女が教壇にあった椅子に座って、ふっと下を向き、ぼんやりしていた姿を見せたことであった。他の生徒がそれを認めたかはわからないし、その時間はほんの数秒であっただろう。些細なことではあったが、私はそこに、尋常ならざる圧迫を感じ、目をそらした。あの時の彼女は疲れていたのではないか。今だからこそそう思える。
 数年前に、高校から会報が届けられたことがある。届いた当初はまるで気にもしないでうっちゃらかしていたが、暇になって身辺整理をしだしたとき、放り出していた冊子を見つけ、開いてみたのである。そこにはかつての教え子に混じって、サッチーの姿が小さく映っていた。教え子連中は誰が誰だか全くわからなかったが、サッチーだけはじっと見ているうちにようやっと、ああ、奴さんだなと気付いた。そこにはかつての面影はどこにもなく、すっかり痩せて小さくなってしまったお婆さんの姿だった。お婆さんはにこやかに笑ってカメラの前で、他のより若い(といっても、彼らも決して若者ではない)連中に支えられるようにしてポーズをとっていた。高校ОB会の宴が催されたときのものというキャプションが付いていたこの写真と、あの時のサッチーとがセットになって、今の私の脳裏に漂っている。もう、あの日々は永遠の過去性になったことを、私は確認し得たのだった。

 さて、さんざん今まで幼少期から小学校中学校、高校時代のことを書き散らしてきたが、大学にまで進学し得たのは、こうした家庭の中にいて、さらにはこうした学校に通っていたからであったとも言える。そこに集う人間たちにろくな奴はほぼ、いなかったが、彼らからは反面教師としての役目は果たしてもらえた。そして大学に行かなければ、知的生産をすることへの価値を見出すこともまた、できなかっただろう。こうやって閑文字を書き散らすことができるのも、ろくでもない経験があってのことなのだ。してみれば、高校卒業までの日々は、無駄ではなかったというわけである。こんな感慨を得るようになったのだから、私はしあわせだとすべきなのだろう。



[1] 『漱石全集』第12巻、岩波書店、1956年、33ページ。ただし、フリガナは略した。