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平岡聡 〈業〉とは何か

業は「ごう」と読む方の業で、「業が深い」とか「業火に焼かれる」とか、何ともネガティブな印象がある。ただ、「業」だけ取るとネガティブでもポジティブでも無い。業はサンスクリットの「カルマン」から来ている。カルマンは日本語では「行為」であり、これなら「作」とか「務」とか、普段我々が使っている言葉に直結していて、分かりやすい。

これを「ごう」と読むと途端に難しくなるが、「ごう」と読む業を使う言葉の中で、最もポピュラーなものの一つが「自業自得」と言う四字熟語で、この「業って何だ?」を理解する上で、この自業自得というのが最も分かりやすいキーワードであることが、今回読んで思ったことだ。

自業自得も大抵はネガティブな意味で使われるが、そうでは無い。悪い業を行えば、悪い結果を得るが、善い業を行えば、善い結果を得る。これが仏教だけで無く、インドにアーリア人が侵入して以来、インドで信仰されている諸宗教で言われる「業=カルマン」にまとわりつく。

仏教の教祖であるお釈迦様ことブッダは、この自業自得がなるべく現世内で個人の中で完結すべき、と言う風に考えていたようだ。いやほら、前世の行い(業)が悪かったから、現世で苦労してるとか、現世で善い行い(善業)を重ねてるから、来世は恵まれた環境で生まれるとか、色々言うじゃないっスか。ブッダにしても、当然ながら輪廻転生と言う概念の軛から100%逃れられていた訳じゃないので、前世と来世の因縁は語っているようだし、生まれ変わるまでに10万年地獄でボコボコにされる、と言うような話も載っている。でも、ブッダは努力(精進)次第で、要は善業を積むことで、良い未来が開ける、しかも現世に、とも言っている感じが強い。

元々はインドの原住民を制圧し、支配体制を築いたアーリア人が、その支配を継続するために「今の君の身分(カースト)が低いのは、前世で色々やらかしたからだ。でも、現世でしっかり善業を積めば、来世はきっと良い身分で生まれてこられる」という風に言った、と言うのは私も中学校で何となく習った。ただ、カーストは生まれてから死ぬまで更新されることは無いので、頑張るより「どうせ俺なんて、所詮現世ではカスで終わると運命付けられているなら、頑張っても詮無いや」という風に、努力をする動機を奪われると言う側面が強く出る感じがある。

そんな世の中で、「いやいや、出自はどうであれ、精進を積んで善行を行えば、人生変えられるよ。自業自得だよ、自業自得」と唱えたのがブッダで、当時としてはこれは革命的な考え方で、よくぞ当時の支配階級に暗殺されずに天寿を全うしたな、と思う。

そんなブッダでも、輪廻転生と言う考えを超越出来なかったのは、現世における理不尽と言う事実がやはり数多存在したからだという。今では考えられないほど、がんじがらめに固定された身分制度下ではより顕著だったと思うが、どうしてあんな悪いことばっかりやってる奴が得をして、地道にやってる俺たちがいつもワリを食ってるんだ、と言うことは当時のインドでもあった訳で、その際「現世で悪いことばっかりやってる奴は、地獄に落ちた末、来世で必ず痛い目に遭う」という風に説明されないと腑に落ちない。そこで用いられたようだ。

でも、輪廻転生なんてのは、少し冷静になって考えれば存在を明確に確認した人がおらず、何とも荒唐無稽も良いところで、本書に書いてあるが、一説によるとあのブッダでさえも、「輪廻転生って、本当にあるんでしょうか?」と問われたとき、返答しなかったらしい。これは「無記」と表現されているが、あるかどうか分からず、説明出来ないことに対して、ブッダは沈黙を保ったというのである。まあ、これは一説ではあるが。

本書内でも、宿業と言うべき、「前世の業(行い)」によるマイナススタートからの克服が多く例示されている。これをひっくるめ「だから余計に、今の人生で良い行いを積み重ねよう」と言うこと、は本書内では書いていなかったが、私はブッダやその弟子が散々言っていたこのようなエピソードを、そう解釈したい。

ところで、仏教には上座部と大乗がある。上座部と言うのは私が中学生位までは「小乗」と呼ばれていたが、小乗というのは大乗に比べて「劣った考え」とされている言葉で、日本でもここ数十年で上座部となったと思う。

現代における上座部仏教は東南アジアで信仰されているもので、特にタイが有名だ。一方の大乗仏教は中国や韓国、そして日本で信仰されている。

上座部仏教は、仏教の初期からの教えに忠実で、比較的個人に焦点が当たっている。個人個人が現世で精進し、楽果を得られるように過ごす、と言うものだ。

一方の大乗仏教は、ブッダ死後400年くらいして興った考えで、全体の中の誰かが精進を重ねて楽果を積まれれば、それが同じ社会の他の人びとにも分け与えられると言うものだ。

浄土宗で「南無阿弥陀仏」と言うが、これは阿弥陀仏が生前に重ねに重ねた善業による楽果が、「阿弥陀仏に帰依(南無)します」と言えば分与されると言う、他力本願全開のもので、これこそ正にThe 大乗というものである。悪い奴も南無阿弥陀仏で救われる。尚、これを批判したのが日蓮で、南無するのは仏じゃ無くてその教え(妙法蓮華経=法華経)だろ、と主張し、結局迫害を受ける。ただ、日蓮の言うことはブッダが死ぬ間際に言ってることと似てるので、仮に「あの世」があって、日蓮がブッダに会ったなら、「お前、よく言ってよく頑張ったよ」と褒められているかも知れない。ブッダは臨終の間際(涅槃寸前)、弟子達に「私が死んだら、『お陀仏』になった私自身じゃ無くて、私が現世で語った教えに従ってね。」と言ったみたいだし。

話を上座部と大乗との比較に戻す。

上座部だって、善行を積むことは「他者を労る」とか「助ける」のような行いがある筈で、そのような行いをされた側は、その精進する人から楽果を与えられていると言うことで、別に完全な個人主義というわけじゃ無いと思う。ただ、日本人として大乗に乗りたいと私が感じたのは、結局自分が完璧に精進をして、完璧な個人になるなんてことは無理で、だから自分が重ねた精進が他人にも及ぶように、他人がやってくれた精進が自分も助けてくれると言う、互助の風情が感じられる大乗の方が、まあ自分には合ってるし、大多数の人にとってもそうだろう、なんて素朴な感想である。ただ、大乗仏教の教えは、自業自得の原則から逸脱している。自業自得は、あくまで「自」分の「業」による結果を「自」分が「得」るんだから、他人の努力の結果を得られるというのは確かに逸脱だろう。でも、私はやっぱり、大乗仏教の思想に近くありたい。何度も言うが、完璧な自分になるのは無理だ。他人の他力のお陰で何とかなったと言うことがあるように、自分の頑張りが他人にも良い結果を及ぼす、と言うのが、社会としてあるべきと言うか、あっても良いんじゃないだろうか。

もう一つ、上記とは別に印象に残ったこと。

これは大乗仏教の概念が出現以前から言われていることだが、「自業自得」は相殺が成立しない。

3つ善業をし、2つ悪業をすると、3マイナス2で1の楽果が得られる、訳じゃ無い。3つの楽果と2つの苦果を漏れなく得られると言うのである。

具体的には、苦しんでいる後輩を助け、悩んでいる部下の悩みを真剣に聞いてやり、難しい仕事を諦めずに努力してやり抜く一方、必要以上に気に入らない奴を罵倒したり陰口言ったり、さらには下請けの便宜を図るために賄賂を受け取ったらどうなるか。後輩は助けられ、部下は悩みが解消し、仕事の実績が上がる一方、その気に入らない奴からは逆襲で背後から鋭利な刃物で十数カ所刺され、収賄が発覚して有罪判決を受ける、と言うことで、プラス3のマイナス2の果報を得る…。いや、この場合はマイナスがかなりデカくないか?確かに、業は一つ二つじゃなく、各々に大きさもあると言うことかと思う。

まあとにかく、いくら良いことをやっていても、悪いこともやっていたら両方の報いは受ける、と言うのが自業自得の特徴の一つだ。

人生、何も良いことばっかりやって終える訳じゃ無く、悪いことだってやって生きてるだろ。犯罪まで行かなくても、散々ウソついたり、真実を故意に隠したりとか、そう言う人の信頼を損なうようなことも、そりゃ「悪いこと」に十分相当する。そう言うことを繰り返せば、「こんな奴とこれ以上人付き合いなんて出来るか」と、相手にされなくなると言う苦果を、そりゃ受ける。

と言う訳で、何だか小学校の道徳で習うレベルの理解しかしてない感じだが、他にも小難しいことがたくさん書いてあった。だけど、ここで書いたようなことが、今になって印象に残ると言うことは、要はこのレベルのことで自分を省みる程度が今の自分と言うことなのかな、と思う。因みに本書、連続して2回読んだ。2回で十分理解したとは思えないが、1回目読み終えたときにはそれ以上に理解したとは思えなかったので。他にも読んでない本一杯あるんだけど。

ところで本書、読んでみることをあまり積極的に推奨しない。アマゾンの書評を見てみたのだが、細かいところでどうも間違いがあるようだし、筆者の平岡聡は別の自著で、アマゾンコメントの自作自演(しかも絶賛)をしていると言う指摘もあった。おいおい、随分浅ましいじゃないか。自身のこの「業」の報いは、既に受けたのか、これから受けるのか、はたまた来世で受けるのか、知ったこっちゃ無いけど、まあ、相応の苦果が来ることで、業の理論の正しさを体現を以て証明して欲しいところである。

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