たたまれた傘を片手に並ぶ高校生の後ろを手ぶらで歩くみたいに

梅雨入りして雨が多くなってきたけれど、ずっと降っているわけではない。出かけるときに天気予報を確認して、今降っていなくても帰るまでに降って来る予報だったら傘をもっていく。逆に、起きたときに降っていてこの後止む予報ならば、少し待ってから家を出る。夕方ごろ濡れたアスファルトの上のひんやりした風をきって歩くとき、傘をたたんで持っている人とすれ違うと、「このひとは朝雨が降った時に家を出た」とわかる。朝出て夕方に帰るのが”普通の暮らし”だから、私がそう思って目の前を並んで歩く高校生たちに送る視線より、そういう人たちの私に対する「この人は雨が止んでから家を出たんだ」という視線のほうがポピュラーで”正しい”ものなのだが。
降ったり止んだりを繰り返す予報の日で同じように傘を持っていても、その傘が濡れているかいないかで、外を歩いた時間の差が露になる。

晴れの日でもこれくらいの気温の季節は、夕方家を出ると少し違う格好で周りの人と行き交うことになる。ニュースの天気予報でおすすめされる服装は、朝家を出て陽が落ちてすぐ家に帰るひとのためのものだ。だけど夕方家を出る私は、その上に1枚羽織らないと深夜帰るときに肌寒くなる。気温が上がった昼間に合わせて半袖を着ている人が、暖かいうちに戻ろうと電車に乗り込むのを横目に、私は帰り道着るためのブルゾンを腕にかけてホームに降り立つ。

”何を持っているか、何を着ているかでその人がわかる”のは、スーツを着ているから固い職業だとか、ブランドものを着ているからお金を持っているなどといった”記号”を読み取れるからだろう。しかしその手前の、袖の長さとか傘のをもっているかいないかのような子どもでもひと目でわかる違いにも、その人の暮らしは刻まれる。どの時間のどの空気をまとって暮らすかも”装い”のうちだ。

梅雨が終われば、日ごと時間帯ごとの、降らすか降らせるか傘を持つか持たぬかの雲と私たちとの戯れも終わる。そして今年も夏になれば、昼でも夜でもできるかぎり肌を出す以外の選択肢がなくなるような暑さがやってくるのだろう。そしてその頃は快晴が一転して訪れる予測不可能な大雨に誰もがびしょ濡れになる季節がやってくる。

高気圧と低気圧が行き交う空の下、違うぐあいに肌を出した人たちがすれ違う今の季節。裾は濡れるし自転車で移動できないし、肌はべたつく最悪の空気だけれども、街を歩く人それぞれにそれぞれの暮らしがあることを思い出してくれるところは好きだ。いや”許せる”くらいか。

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