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悪魔を見ながら

行こうと思ってたモディリアーニの特別展示が一週間前に終わっていたり、いつまでも続くと思っていた関係に耐え難い変化があることや、地元に帰る理由だった友人が自分より先に逝ってしまったことが僕の人生の不気味さをより、深淵なものにした。

将来を期待しながら、息をするのはとても辛いことだ。期待が満たされない兆候を薄薄と感じ始めたときから、これ以上傷つきたくないという賤情が全身を支配して、理性に優って僕を動かしていた。家賃5万、築30年のワンルームに住む僕と閑静住宅地の団地に住んでいた頃の自分は明らかに臆病さが違う。
やりたいことは無数にあった。

いつの間にか、テレビの高校球児よりも年上になり、大人だと思っていた年齢になっても何も変わっていないことが下品なエモを語らせる。

守られない約束を信じて、信じていた自分すら許せず、一方で破った本人は自覚がなく、こんな構図があらゆるところで多発する。
一人でいるのは大した苦痛ではない。接点が少なければ、それだけ摩擦も小さく、傷も浅い。自分で自分を楽しませて、機嫌を取り、守って、愛する。ことができれば、できたなら何にも代えがたい人生を生きることができる。
ただ人間というのは一度味わった思い出をリフレインする。
記憶が多彩であればあるほど、期間が長ければ長いほど、失ったときの痛みは人を殺せるほどだろうか。

AM3時に目が覚め、自分の家に居場所なく、飛び出せば、昨日降った雨が作った水たまりに月極駐車場の看板が跳ね返っている。
目的地などなく、徒然と歩き回れば、だれにも侵されることのないインナーワールドが広がる。
誰もいない、自分以外は。
大きく歩幅をとって、下を向いて歩く。
暗闇の方へ、ずーっと行けば二又の道路が現れ、どちらへも行けず、引き返し、明るい方へ行くならば、無数の虫がわななめく。
歩き続けることで居場所が生まれた気がした。

人間関係の切られた側には、切られた側の心境がある。
整理と称した蛮行が、自覚無自覚の区別なく行われ、捨てられた側の人間も区別なく傷つくのかもしれない。
人であるならば、理由を用意すべきではなかろうか。
切られたしっぽは引っ付くことがないし、死にゆくしかないが、それでも貴方の一部であったことに変わりはないだろう。弔いもなしに先に進むのならば、腐敗した道を歩むことになる。


死ねば肉体は残らないが、貴方が切り離した事実はいつか貴方自身を殺す。

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