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『夏の砂の上』田中圭さんの舞台を初めてこの目で観た女の記憶。

いつか田中圭さんの舞台が観たい。
その夢をとうとう実現させることが出来た。

しかしあれからもう随分と時間が経つが、私には田中圭を見たという実感がない。
もちろん他の役者さんも。
この目で〇〇さんをみたんだ!
そんなミーハーな気持ちなんて1ミリも湧いていない。

気怠いほどに暑くカラカラに乾いた夏、小浦治を中心とした人々の日常を固唾を飲みながら見守っていたそんな思い出が残っている。

舞台『夏の砂の上』


<あらすじ>

ある地方都市、坂のある街。
坂にへばりつく家々は、港を臨む。
港には錆びついた造船所。
夏の日。

造船所の職を失い、妻・恵子に捨てられた小浦治のもとに、家を出た恵子が現れる。恵子は4歳で亡くなった息子の位牌を引き取りに訪れたのだが、治は薄々、元同僚と恵子の関係に気づいていた。
その時、治の妹・阿佐子が16歳の娘・優子と共に東京からやってくる。阿佐子は借金返済のため福岡でスナックを開くと言い、治に優子を押し付けるように預けて出て行ってしまう。
治と優子の同居生活が始まる。
世田谷パブリックシアター公式サイトより



一度きりの鑑劇ということもあり、先に戯曲を読みできるだけ多くの感情をキャッチしたいと思っていた。



静かで物悲しくて気まずくて。
淡々とした話だからこそ想像力が働いて。
ものすごく引き込まれた戯曲。

だけれどこの静かな物語を2時間舞台で。
あまり想像が出来ずに迎えた当日。


舞台上には古びた畳間と階段。
壁面に映る光が窓から差し込む太陽光のように少しずつ見え方を変えるけれど、大きな舞台の転換もなく、隣の部屋を覗き込んでいるような気持ちになった。

私の座席の位置は一階の後ろの方ではあったけれど、中央という事もあり思ったより近く、少しずつ埋まっていく観客が息を潜めて開演を待っているシーンとした空間に私は緊張しすぎていた。

結果、開演前に舐めた飴が終演後まで残る程にガッチガチでオペラグラスを覗くタイミングすらよく分からずに初観劇を終えた。

田中圭さん演じる小浦治を初めて見た印象は、『すごく大きい』だった。

ガッチリした身体だけれどいつも感じる良い体ではなく一生懸命に働いて苦労してきた男の身体といった感じ。
身体というより図体という言葉の方がしっくりくる。

大きな図体で背を丸めて1人遅い朝ごはんを団扇で冷ます様子からなんとも言えない哀愁を感じた。

長崎弁で交わされる会話の数々。
父が熊本の人なので朧げだが記憶にある熊本弁のイントネーションで戯曲を読んでいたけれど、あの舞台で聞いた長崎弁は想像よりも柔らかかった。
少し人との距離があるような優しくて遠慮がちな印象だった。

淡々とした戯曲にすごく忠実ではあるものの、舞台ではくすりと笑えるところも。

動きもさほど多く無い会話劇だけれど、登場人物1人1人のキャラがすごく立っていてそれぞれの裏側にある人生までも想像してしまうような親近感?人間臭さ?表現が難しいけれど、とにかく生きている人がそこにいる感じで、それがまた他人の部屋を覗いているような背徳感に拍車をかける。

この作品に出てくる人たちはそれぞれが薄暗い何かを抱えていて、寡黙だったりやけに明るかったり見え方は違えど、それぞれが取り繕って生きているようだった。

そんな人たちの中でも治さんはすごく寡黙で無愛想のように見えるけれどきっと根底に情愛があって優しい人。

感情があるのかないのか分からない。
そんな掴みどころのない人とも捉えられるけれど、無理やりとはいえ妹から頼まれた優子を受け入れて、ご飯を作ろうか?と声をかける。
男の影にムッとしたりその男を気にかけたり。

会社でお世話になった人への恩も忘れず気遣いがある。

嫌なことを言われても、大きな裏切りにあっても上手く怒れない。

ただ生きるのが不器用で人と向き合うのが下手なだけ。

こころにポッカリと開いた大きな穴を埋める事も、妻の心の変化や苦しみに気付いていたとしても手を差し伸べることもできなかったのではないかと想像する。

その一方で妻の恵子が出ていった気持ちも何となく分かる。

毎日同じ窓から同じ景色を見る。
閉鎖的で娯楽もない暮らしのなかで物悲しい過去を抱えながら生きていく。
共感し合い支え合える相手がもしいなければ、喪失感に耐えられなくなりそうだ。

この物語は昔々あるところに起こった他人事のような話ではない。

今でもきっと誰かが悶々としながら、気付かないように蓋をしているような日常が目の前で繰り広げられる。

雨も降らず水を自由に使うことさえままならない夏の暑い日に繰り広げられる息苦しい閉塞感がジワジワと伝わって来て終始みぞおちのあたりがギュッとなっていた。

そんな静かな舞台のなかで治さんは特に遊びの少ない人に感じた。

他の役者さんほどの動きや心の大きな揺れもさほどなく淡々と受け止める姿。

周りのキャラが濃いだけに印象が薄くなりそうな役柄にも思える(舞台にも演技にも何の知識もない私が感じた事なので的を得ていないかもしれないが)

だけれども、大きな背中が小さく見えたり愛おしく感じたり、どうにかして彼を笑顔にさせてあげたいと思ったり、私の中の母性が溢れてたまらなかったのは、田中圭さんの真骨頂なのか。

どこか寂しげで憂いのある治さんが恵みの雨で喉を潤し、幸せそうにしている姿は見ていてすごく嬉しかった。

彼の人生はこれからどんな風になっていくんだろう。
何だかずっと変わらない気がする。
淡々とした日々を暮らし、時に巻き込まれながら暮らして行きそうだ。

鑑賞後の余韻の中で治さんを思ったり、持田さんの人生について考えてみたり、恵子さんや陣野さんのその後、優子の未来の事を考えたりして。

大きな山があるわけでも無くドラマチックすぎる展開があるわけでも無い。
私はこういう作品がとても好きだ。

一度きりの鑑劇で、しかもガッチガチに緊張して観ていたものだからこの物語の中のメッセージをしっかりとキャッチ出来たかというと全くもって自信は無いけれど。

配信で是非ともリラックスしながらあの世界に浸り、あの時キャッチ出来なかった何かを見つけるのが何とも楽しみである。

そして最後まで私の右手にぶら下がっていた使われなかったオペラグラス。

あの時見られなかった色んな表情を見るのも楽しみだ。

危なげで掴みどころのない山田杏奈ちゃんのフレッシュな演技や、悔しいけれど憎みきれない尾上寛之さん演じる調子のいい陣野さんとか(彼のあんな感じの役大好き)
他の演者さんもじっくり観たい。 
私には全く分からなかったのり弁の中身とかね。


私にとって人生初の田中圭さんの舞台観劇。

舞台上にいる治さんは全くもって田中圭ではなくて。
ツイートなどでみんながよく言っていた役が抜ける瞬間を私は観られないのでは無いかと思うほど、不安になる程ずっと治さんで。

カテコという言葉を使う事すら何だか抵抗のある程の舞台新参者の私は演者の皆さんが舞台に戻ってくる姿を見ながら、あぁこれがカーテンコールというものかとボンヤリと傍観していた。

深いお辞儀をして顔を上げた圭さんはオペラグラスを覗かなくても分かるほどに田中圭に戻っていて。

ホッとしたような笑顔や二階までしっかりと目を配る姿を観て大いに安心した。

圭さんの舞台をこの目で観られた実感がようやく沸いた。

役者田中圭をこの目で観た幸せと、あの夏の世界の余韻とでもうフワフワのクラクラになりながら会場を後にした。

ロッカーに預けていた荷物を完全に忘れて駅の改札をくぐりそうになったのも今では良き思い出だ。

また一つ夢が叶った。
圭さんの舞台を観た幸せ。

それと同時にファンミーティングって本当に貴重なものだったんだなとも思えた。

あれだけの時間、役を纏わない田中圭を見られたあの日。

役をまとっていない出来るだけ飾らない自分自身を見せたいと言ってくれた圭さんを思い出すと嬉しくて。

参加できた事が幸せで。

役を纏う圭さんも、纏わない圭さんも観られた今年は私にとって本当に素晴らしい年だった。 


ファンミーティングのnoteはコチラ


来年もまた何らかの形で圭さんに逢えますように。

そして私もいつかはマチソワとか言ってみたいしやってみたい。

圭さんが次に選ぶ舞台はどんなものなんだろう。

次はちゃんと息をしてリラックスして臨めるように他の舞台を観たりして成長しておこう。

素敵な経験をありがとう。



あ…そして

松本正隆 傑作三選の
『坂の上の家』もとても好きな世界観でした。

モヤモヤした気持ちを抱えながらも支え合う人たちの日常会話。

不器用な人たちの優しさがすごく沁みて、私は「連続テレビ小説おひさま」の三兄弟で脳内再生して読んでいた。


こんな風に圭さんのおかげで普段見る事のない作品に出会えて世界が広がる。

推しのいる生活って本当に良いものですね。

田中圭さん、これからも私の世界をこじ開けてください。

何かをものにして私も立派なおばさんになれるように頑張ります。

雨音

追記

舞台2公演後に指揮の練習

治さんを生きながら朝陽さんの指揮の練習していただなんて。


雑誌&web記事





3月26日テレビ初放送




圭さんの語る治さんのその後。
そんな風に感じていたのね。



この記事を読んだ後にまたあの世界にいくも違った見方が出来そうですね。

よりたくさんの方が見れるようにBS放送もいつかよろしくお願いします。

チャイメリカも!

雨音でした












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