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セクシャル・エレガンスと「小悪魔」(ヒッチコックのグレース・ケリー観)

先日、ヒッチコックの『汚名』について記事を書いた。
イングリッド・バーグマン主演のこの名画について語ったからには、もうひとりのヒッチコック美人も取り上げなければ片手落ちだろう。
そう、グレース・ケリーである。

セクシャル・エレガンス。

彼女の魅力をヒッチコックはそう表現していたそうだ。

富裕な家庭に育って上品なエレガンスを身につけたレディーでいながら、その奥に見え隠れするクールな官能性
(SCREEN特別編集『永遠の二大クール・ビューティーズ イングリッド・バーグマン&グレース・ケリー』近代映画社 2002年 p85)

フランソワ・トリュフォーとのインタビューでは、もっと露骨に答えている。

わたしたちの求めている女のイメージというのは、上流階級の洗練された女、真の淑女でありながら、寝室に入ったとたんに娼婦に変貌してしまうような、そんな女だ。
(ヒッチコック/トリュフォー『定本 映画術』山田宏一・蓮實重彦訳 晶文社 1990年 p229)

ヒッチコックのこの嗜好に最もフィットした女優が、グレース・ケリーだったのである。

ヒッチコックの母国イギリスのルネサンス期の詩に、「The song of the rose」と呼ばれるものがある。
この詩で歌われている咲き誇る薔薇のイメージは、どことなくグレース・ケリーのセクシャル・エレガンスを思わせる気がしてならない。

美しいものを見たい、いや、溌剌と咲く花のうちに
自分の華々しい一生の姿が見出だせる、と思う人は、見るがいい、
乙女のように含羞む薔薇の花を見るがいい。初めのうちは、
しおらしげにそっと外の様子を窺いながら綻び始める、
人の眼につかなければつかぬほど、その色艶もひとしおだ。
だが、あっというまに、彼女は大胆不敵になり、
人目も憚らず裸の胸元を拡げる始末だ。
そして、忽ち、色褪せ、しぼみ、朽ち果ててゆく。Ah see, whoso fair thing dost fain to see,
In springing flower the image of thy day;
Ah see the virgin rose, how sweetly she
Doth first peep forth with bashfull modesty,
That fairer seems, the less ye see her may;
Lo see soon after, how more bold and free
Her bared bosom she doth broad display;
Lo see soon after, how she fades, and falls away.

-Edmund Spenser
Faerie Queene
Book 2, canto 12, 74-75
(平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫 1990年 p26-29)

ヒッチコック作品ではないが、「乙女のように含羞む薔薇の花」の時期は、ケリーの出世作『真昼の決闘』あたりだろうか。

『裏窓』ではすでに大胆不敵で、積極的に男を愛している印象だ。

そして、『泥棒成金』。
かつての大泥棒キャット(ケイリー・グラント)と富裕な未亡人の娘(グレース・ケリー)の出会いを描くこの映画では、彼女の「内面に炎のように燃える情熱や欲情を秘めながらも、表面はひややかに慎ましやかに装っているという、そのパラドックス」(『映画術』p230)がよく描かれている。

『泥棒成金』では、わたしは、グレース・ケリーを最初はできるだけつめたい感じの女に撮った。なるべく横顔をとらえ、古典的な、氷のようにひややかな美しさを強調するようにした。そのあと、ケイリー・グラントが彼女をホテルの部屋までエスコートしていくと、彼女は、それまでいやにつめたくとりすましていたのに、いきなり、ケイリー・グラントに燃えるようなくちづけをするわけだ。
(ヒッチコック/トリュフォー『定本 映画術』山田宏一・蓮實重彦訳 晶文社 1990年 p230)

自律した芯の強いレディーの、上品だが官能的な淫靡テーション。
こんな大人のラヴゲームに、負けてみたいと思わない男はなかなかいないのではないか?

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