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【 自作小説投稿 】「牢獄」


七月二十三日

 今日私は、防虫剤の匂いのする制服に身を
包んだ警察官二人程に引かれて、あまり日の
入って来ないような牢屋に入れられた。警察
にある牢屋というと、よく動物園にあるよう
な前面が鉄格子のものなのかと思いきや、厚
い鉄の扉に閉ざされた、後ろの壁に開いた空
気窓以外からはとても光が入って来る様子の
無いような、暗く陰鬱な雰囲気の漂う独房と
言った感じの代物だった。ただ私としても何
故このような所に入れられてるのかの理由が
わからないため、最初に見回りに来た監守に
聞いてみた。すると、人を馬鹿にするなよと
言わんばかりの態度で、私が殺人の現行犯と
して捕まったことを教えてくれた。まるで身
に覚えが無いのだが、そう言われればここ一
週間ほど何をやっていたのかという記憶が定
かではない。それについても聞こうと思った
のだが、気付くと監守はもう他の牢屋を見回
りに行ってしまったらしく、監視窓はもう閉
まっていた。

 天井の明かりを見ながら一体何やってんだ
ろうという思いのなか呆然としていたが、自
分が何をやってここに入っているのかもわか
らないままここにいるというのも何か納得出
来なかったので、明日にでもなれば弁護人等
との接触も出来るだろうからと思いながら寝
る事にした。そう思いながら、ふと今自分の
いる独房の中を一望してみた。今日ここに連
れて来られてからこの部屋の中をじっくり見
ていなかったことに気付いたからだ。部屋の
中にはベッドと便所、あと洗面台があるだけ
で結構ガランとした感じだ。壁や床は何の加
工もしていない感じのコンクリートで、その
せいもあってか今住んでるアパートの部屋よ
りも広いであろうこの部屋が余計にも広く感
じられた。しかし、そんな思いもちょっと深
く考えてみたら吹き飛んでしまった。ここし
ばらくこの中だけで生活しなければならない、
一日中自由にここから出る事は出来ないとい
うことを思い出した瞬間、立っている事さえ
無意味に思えてしまうくらいの倦怠感に襲わ
れ、寝苦しい程の暑さの中、現実から目を背
けて寝る事にした。


七月二十四日

 あまりに寝苦しかったため目を覚ましたら
既に朝食は部屋の中に入れられていた。空気
窓からまぶしいくらいの日の光が差し込んで
いることからもう夜が明けてからだいぶ経っ
ている事はわかった。だが、部屋の中に時計
がないため正確な時間はわからない。今は特
に必要なことでもないんだろうが、無性に気
になってしまう。飯を食べ終わった後、昼食
が運ばれてきた際に、時計を入れて欲しいと
頼んでみたら、職員は夕食の際に一緒に持っ
てくると答えた。そしてついでに自分の事件
に関わる弁護人やら自分の家族などの面会な
どはないのかと尋ねてみたが、特に来ていな
いというそっけない返事が返ってきただけだ
った。

 ふと考えてみた。こういう時に普通の人な
ら、まず自分のいたコミュニティーのことを
心配に思うんじゃないだろうか。自分の働い
ていた会社や自分の家族、さらに自分の恋人
などが自分の逮捕によってどんな影響をうけ
ているのか。彼等が自分のことをどう思って
るのか。そういうことを考えると居ても立っ
てもいられなくなるんじゃないかと。なのに、
私はそう考えてみるまでそれらのことにあま
り気が付いて無かった。いや、確かに気にし
てはいたのだが、そこまで実感が沸かなかっ
たのだ。なぜなのかと考えてみたら、実は自
分の勤め先や家族、恋人のイメージあまり浮
かんで来ない今の自分に気が付いた。自分に
とっては重要なことのはずなのに、なんとな
くのぼんやりとしたイメージしか思い浮かば
ないのはなぜだろうと焦るような気持ちで考
えてみた。しばらく考えた後、日が落ちてき
たようなので考える事を止めた。

 夕食とともに置き時計が届いた。私はその
時計をベッドの横に置いて、一人声も出さず
に夕食を食べていた。朝昼夕と刑務所の飯と
言うものを食べてみたが、評判ほどのまずさ
ではないように思う。ただ、それは多分普段
の私の食生活が乏しかったからだろう。


七月二十五日

 前日同様あまりに寝苦しいのでベッドでな
くコンクリートの床に毛布を敷いて寝ていた
ら、この独房の扉を叩く音がした。ふと扉の
あたりを見ると、既に朝食は置いてあった。
はいと返事をすると、監守が言うには昼食前
に風呂の時間があるらしいとのこと。そうい
えばここに連れて来られてから丸二日程風呂
に入って無かったことに気が付いた。

 時間になると二人程監守の人間が入って来
て、手に手錠をかけた。そして付いて来るよ
うにというニュアンスのことを言って歩き出
した。私は部屋の中にあった雪駄を履いて言
われるままに監守に付いていった。廊下を歩
きながら周りを見ると、同じような独房が幾
つも並んでいるのがわかった。だが、ほとん
ど物音さえしない。あまり囚人は入ってない
ようだ。

 監守に聞いてみた。私としては犯罪を犯し
たという記憶がなぜかないので、どのような
犯罪を犯したのか、それでもし私が納得出来
ないようなら裁判をしたいと思うんだが、刑
事事件なのだから弁護人等はどうなってるの
かといった、事件についての疑問点である。
だが、いくら問いかけてみたところで監守は
何一つ答えようともせず、無言のままである。
私は何か釈然としないまま、うつむき加減で
歩き続けた。

 風呂に着くと着替えと洗面具を渡され、十
分以内で入ってこいと言われた。曇りガラス
の引き戸を引いて中に入ると、ちょっと狭い
銭湯のような感じの大風呂があった。私以外
誰もいない。後で聞いたことだが、ここの囚
人の風呂の時間は一人一人わざわざずらして
いるらしい。よほど囚人同士の接触が嫌なよ
うだ。それと、どうやらこの先も暫く風呂は
三日に一度のペースらしい。私としてはこの
暑い季節に汗も大量にかくのでもう少し早い
ペースで入りたいのだが、むこうの言う事に
はさすがに逆らえないと思い、言うのもあき
らめた。


八月十六日

 結局何を言っても取り入ってもらえないし、
改めて考えてみると意外とこの独房暮らしも
いいんじゃないかとも思うようになった。確
かに窮屈な部屋から出られないのはかなりの
ストレスである。しかし、働かなくても三食
出るし(収監中にはある程度の労働をさせら
れると聞いていたが、なぜか私はそういうこ
とをしなくてもいいらしい)、びっくりする
くらいの静かな環境の中で世間を気にしなく
て済むんだから、かえって娑婆に出た後の世
間の目とかが気になって娑婆に出たくなくな
るんじゃないだろうか。よく刑務所に戻って
来たいために犯罪を繰り返す人の話を聞くが、
そういう人の気持ちもあながちわからないこ
ともない。景気の悪い昨今、職探しに奔走し
ながら不安を抱えて生き続けることよりはる
かに楽なんじゃないだろうか。今の私にとっ
ては娑婆に出る事の方が辛いかも知れない。

 正直言うと、ここから娑婆に出て社会復帰
してもしょうがないんじゃないかと思ってい
る自分がここにいる。なぜかは知らないが
(多分私が起こしたという事件に関係あるん
じゃないかと思うが)普通に生活していた頃
の記憶がほとんどないことに気が付いた。本
当に昔の事とかは覚えている。現に自分の名
前も両親の顔もすぐに浮かぶ。にも関わらず、
最近の事になればなるほど忘れているのだ。
そんな状態の自分が社会に戻ったとしても、
再び人間関係を構築していくことが出来るの
だろうか。多分出来ないだろう。何と言って
も自信がない。さらに私は(話を聞く限り)
殺人という重大な犯罪を犯してるんだから、
そう簡単に世間に受け入れられるはずもない
だろう。生活の不自由こそあれ、もはや精神
の安息はここにしかないのかもしれない。

 扉を叩く音がする。何かと思い聞いてみる
と、監守曰く雑誌または新聞を一種類取る事
が可能なので、何か希望はないかと聞きに来
たようだ。このサービスの良さは何なんだろ
うと思いつつ私は現在一番発行部数の多い新
聞の朝刊を指定した。そして、気になったの
でついでに今日は何日なのかということを聞
いてみた。すると監守は八月十六日だと答え
た。驚いた。思ってたよりもずっと日が経つ
のが早い事に。


九月六日

 朝起きると頬に鈍い痛みが走る。ベッドか
ら起き上がり洗面台の鏡で顔を見ると、右頬
が青く腫れ上がっていた。内出血を起こして
いるらしい。朝食を持って来た監守にそのこ
とを聞くと、自分の胸に手を当ててよく考え
てみる事だなと冷然と言われた。そして去り
際に彼は、これでまた刑期が延長されたとい
う内容の事を言って去っていった。それを聞
いた瞬間、私は刑期が延びたということに対
する不安より先に、この独房での生活に期限
があるということに、恐怖に近い不安を感じ
てしまった。


九月十八日

 だいぶ涼しくなってきた初秋の日和、ふと
空気窓の外が気になった。別にここから出た
いという訳ではない。ただ、久しく見ていな
い外の景色がどうなってるのか、ちょっと気
になっただけである。空気窓は外側の壁の、
高さ3.5mくらいの所に開いている。差し
込んで来る光の影から鉄格子がはめられてい
ることがわかる。ふと壁を見る。何の加工も
してないコンクリートといった感じゆえ、い
くつか出っ張りなんかがある。うまく利用す
れば鉄格子に手が届くかも知れない。しかし、
私は何もしない。別に現状を打開しようとも
思わないし、無理をして今以上に重い刑罰を
科されるのは願い下げである。今はただ、そ
の窓の外から聞こえて来る鳥の鳴き声に耳を
傾けている。


十月九日

 冬も近付いて来ているんだろう。今日は朝
から激しい雨が降り続いている。雨雲は黒々
とした身体を空一面に拡げ、心の中まで深い
灰色にしてしまう。私は一日外側の壁に背中
をつけたまま、雨の音を聞いていた。明かり
も付けていなかったため、夜のように暗い部
屋の中。空気窓に跳ねて入って来る雨垂れを
静かに身体で受けながら、何とも表現しきれ
ないような心持ちになっていた。


某月某日

 一昨日辺りから、空気窓の外から蔓のよう
な植物が入って来て、どんどん房の中で拡が
って来ているのだ。昨日気が付いてみると床
一面に蔓植物がその蔓を拡げて足の踏み場も
ないくらいになっている。それ自体は別に問
題ないのだが、問題なのはその蔓に伴って入
って来る無数の蟻。こう足元でカサカサ音を
たてて動き回られたのではさすがに気が滅入
る。そこで昼食を持って来た監守に、この蔓
を取って欲しいと頼んでみたが、監守は房の
中を見るや否や、何もないじゃないか、冗談
を言うなと言ってそのまま帰っていってしま
った。今日、気が付くと蔓は跡形もなく消え
去ってた。


某月某日

 今日は気が付くと、房全体が水浸しになっ
ていた。きっと空気窓から入って来たのだろ
う。自分も当然水の中なのだが、なぜだかわ
からないが苦しくはない。逆に心地いいくら
いだ。私はベッドの上で横になったままただ
天井を眺めていた。この房を満たす水も決し
て流れがない訳じゃなく、かえって一定の強
い流れがあるかのような感じだった。確かに
肌はその流れを感じていたはずである。

 監守が昼食を持って来たので、泳いで扉の
所まで行く。監守にこの大量の水はどうした
んだと聞いてみたが、彼はエアーラングをく
わえていたので何も返答して来なかった。た
だ口部から出る気泡の行方が、私には奇妙に
思えた。


某月某日

 どうやら私は、長い間会話らしい会話をし
ていなかったためか、声の出し方、言葉の発
し方を忘れてしまったようだ。言葉を発しよ
うとしても、ただ喘ぎに近い音にしかならな
かったり、口から空気が出るだけなのだ。

 私は言葉を発する事を諦めた。今までその
ことに気が付かないくらいに言葉を発する
必要がなかったのだから。これからも、多分
変わらない。

 私が今恐れている事は、ここから出される事だ。


(2000年執筆)
見つけられた誤字脱字のみ訂正。
漢字変換無しなどは当時の自分の
判断を尊重しそのまま残しています。

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