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壮絶な悲しみから

父のお通夜、葬儀、告別式が終わりました。

火葬場につき、皆が精進落としを食べている間、父の肉体が燃えている煙でも見えればと思って外に出てみたけれど、見えたのは穏やかな空だけでした。


父がこの世から居なくなってから、まだ8日?
とてもとても長く感じるこの時間軸はなんだろう。

この世の中から、私が大好きで、大切で、この人が居なかったら私は絶対に存在しないであろう偉大な人が居なくなったとういうのに、世の中は何も知らず、当たり前のように何も変わらず進んでいる。

それはいつかの未来に、私が居なくなったっとしても、そういうもの。

父の居ない世界は、今まで見えていた景色とは何かが違って見えて、私が今まで生きてきて感じてきた辛さや寂しさなんてものは大したことなかったんだな、と思っています。

きっと、今後何があっても、この寂しさや辛さに比べたら大したことないだろう。
家族や大切な人を失う以外に、家族や大切な人が辛く悲しがっている姿を見る以外、わたしにとって大体のことはどってことない。

そして

父のお別れに際して、友人や仕事の仲間、元生徒の家族、お客様など、訃報を知った方々から、慈しみのお心やお言葉。そして気にかけて毎日連絡をくれる友達。

こんなにも素直に心の底までストンと落ちてゆく優しさを感じられたことは、今までにない経験でした。
かけてもらう優しさって素直に心から感謝し全部をもらっていいんだ。って思いました。

だから私も、もし好きな人が悲しみに打ちひしがられていたら、私がされたようにしてあげよう。

よく【歳をとると涙もろくなる】と言いますが

それは年齢を重ねていく間に経験するたくさんの事から、見聞きするだけでも我が身のことのように寂しさや嬉しさを受け取れるから、無意識のうちに、過去に味わった感情が涙となって出てくるのだろうなと思いました。

今まで、誰かとの会話の中で「もう父は亡くなっていて」という言葉に、ああ寂しいだろうなあ、という漠然とした気持ちだったけど、きっと私は誰かの発する「父が居ない」という言葉に、自分の父を重ねきっと自然と涙が出てくると思う。

父がいつも座っていた椅子には、今でも父が座っている光景しか思い浮かばないし、こんな風に悲しがっていたら、車椅子の父が「走っていくからちょっと待ってて」と言ってくれそうだし、母が私に小言を言っていたら母に見えないように私に変顔して笑わせてくれそうだし、それはきっと「気がする」のではなく、私にとっては「絶対にそう」で。
目に見えることだけが支えになるわけではない。


寂しさは消えることはないけど、父のことを思えば、病院でたった一人で苦しんでいた痛みや孤独から解放されて今頃、空を駆け回っているのだから喜んであげるべきことなんだ。

こうしてお父さんがわたしの心の中に残してくれたことを、これから大切に繋げてゆきたい。
それがこれからできるお父さんへの恩返しだと思って。


火葬が終わった今日。壮絶な悲しみから、なぜか、とても心が穏やかです。
日本のこのお葬式という一連の行事は、残された人にとって、ひとつひとつ乗り越えてゆくための、とてもとても大事な行事なのだな。

そしてやっぱり私はこうして文字にすることで、自分の心の整理につながりました。

この1週間。わたしの人生にとって、とても貴重でとても大切でものすごく温かい時間でした。


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