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適応障害の原因は、家族の思い通りに生きてきた過去かも

新卒入社後3か月で適応障害になり、2年半以上経った今も働けずにいる私ですが、自分と向き合う中で、いろんなことがわかってきました。

今回は、家族に対して抑え込んできた怒りが、適応障害にどう関係していたのかについて書こうと思います。

また考えていく中で変わるかもしれませんが、現時点での解釈として読んでいただければと思います。


早速結論を言うと、絶対服従の構造に耐えられなくなったということです。

『絶対服従』という言葉の意味は、辞書的には下記の通りです。

逆らうことは少しも容認されず、何があろうとも君主や上の者の命令に従うさま。

weblio辞書

ですが、ここで私が使う『絶対服従』は少しちがって、相手の思い通りになるように合わせるのが当たり前というイメージに近いです。


過去を振り返ると、我が家は父と兄に、母と私が合わせるという構図になっていました。

父は節約に関してものすごいこだわりがあり、我が家には父が決めたルールがたくさんあります。

ある程度は合わせられますが、あまりに極端なのでストレスが溜まります。耐えかねて話し合いをし、折衷案を模索してみたこともありますが、一度「こうしようね」と決めたはずなのになかったことにされたこともあります。

納得できないことは母や私がなんと言おうと響かないらしく、結局こちらが諦めて父のルールに従うしかありませんでした。頑固だとは思っていたけれど、ここまでとは…と呆れたことを覚えています。


兄もこだわりが強いし、自分の思い通りにならないと不機嫌になる傾向があります。お風呂に入るタイミングは、基本的に兄が入りたい時間に合わせて私たちが調整しています。「まあ仕方ないか」と当たり前に合わせていましたが、思い返すとだいぶ我慢してきました。

小さい頃から、テレビのチャンネル権は兄のものでした。抵抗したこともありますが、兄が不機嫌になるくらいなら私が我慢した方が楽、その方が丸く収まる、という思考が早くから身についていたように思います。


こんな感じで、昔から父や兄が望む状態になるように振る舞うのが当たり前でした。自分がどうしたいかは考えても無駄だから、考えなくなったのだと思います。

この状態を、ここでは絶対服従の構造と呼んでいます。


学生時代はリーダー的ポジションになることが多く、部活では基本的に中心メンバーだったので、割と自分の意見を反映させられました。

特に大学時代に所属していた団体では代表だったので、かなり自由に、自分が良いと思うように意思決定できる環境でした。

そのような環境が合っていたんだろうとなんとなく思っていましたが、どうやら絶対服従構造からの脱却のような意味があったのかもしれません。誰かの思い通りに動くことへの抵抗、という感じでしょうか。

家では自分の意見を反映させられない分、外ではそれをしたい。合わせるばかりではなく、「自分はこうしたい」と言える環境を求めていたのかもしれません。

リーダーをやることで、自分の中でバランスを取っていたと考えられそうです。


それが、会社に就職したことで再び絶対服従の構造に戻った、と考えてみました。

もちろん会社員というのは、会社のルールの中でやるべきことをやってお金をいただくわけで、それ自体は当たり前だし、入る前からわかっていたはずでした。

問題は、その状況が自分にとってはとてつもなく耐え難いものだったということです。


家での絶対服従の日々で、たくさん我慢をし、怒っていたはずです。でもそれを外に出すこともできず、自分の中に抑え込み、溜め続けてきました。そして、そんな状況にもはや自分でも気づけなくなっていました。

そんな状態で会社に入り、そこのルールに従うことを求められる。

「ルールを守らなきゃ」
「言われた通りできるようにならなきゃ」
「この環境の当たり前に合わせなきゃ」


そんなことを四六時中考えていたから、心がストライキを起こしたのだと思います。



うーん、もう少しでわかりそうだけど、まだわからない…

まだ部分的にしか見えていない状態なので、ここからさらに考えを深めていきたいと思います。


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