「自分がいなくても平気」に安心するのはなぜ
最近、クルミドコーヒーというカフェの店主である影山知明さんの著書『ゆっくり、いそげ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~』を読んでいます。
この本の中には、私がなんとなく思っていたことや、「こうだったらいいな」という理想像が具体的な事例とともに書かれていて、私にとって希望が詰まった一冊だと感じています。
この記事は、資本主義に対する違和感が言語化されている!と思ったときのものです↓
今回は、内容に対する共感ももちろんありつつ、それを通して見えてきた自分の考えにスポットライトを当てようと思います。
それはなにかと言うと、「自分にしかできない」が怖いということです。
本の中に、「仕事に人をつけるか、人に仕事をつけるか」という章があります。(p.159~)
経営学の教科書的には、仕事を属人化させると経営が不安定になるから「仕事に人をつけよ」と言われる。けれどそれを徹底すると、自分の存在意義自体への疑念にたどり着く。クルミドコーヒーでは、誰か特定の人に合わせて仕事が生まれ、その人を失うとその仕事自体が失われる、「人に仕事をつける」スタイルだそう。
私自身「関わる人が違えば仕事自体も変わるのでは?」とか、「やる人の得意に合わせて仕事を合わせていけたらいいのにな」などと思っていたので、クルミドコーヒーのスタイルがとても素敵だなと感じました。
そこから私の考えが広がる中で、自分の中に怖さがあることを思い出しました。
本の内容とは文脈が違いますが、「自分が行けなかったら迷惑をかけてしまう状況」を想像するとしんどくなります。
これが、がむしゃらに頑張りたくてもどこか飛び込めない原因のひとつのように思えるので、向き合いどころだなと。
怖さを感じる原因として、大学時代の出来事があります。
所属する団体の活動において、自分しか詳細がわからない状態をつくった挙句、大事な日に熱を出し、関わる人にものすごく迷惑をかけたことがあります(正直これだけじゃないけれど…)。
この状態になった背景も自分を知る材料になると思いつつ、今回はそれによって根付いた恐怖感に焦点を当てます。
熱が出たときの絶望感や、自分ありきで物事を考えていた傲慢さ、自分の不在によって生じる問題の多さを知り、これじゃだめだと学びました。
学んだものは今後に活かせばいいのですが、この件に限らずリーダーの役回りを担うことが多かったので、自分がいないとやばいというプレッシャーはさまざまな場面で感じていたのだと思います(無自覚だったけれど)。
反対に会社を休職・退職した際、もちろん他の方々にしわ寄せがいってしまったことへの申し訳なさはありますが、自分がいなくなろうとまったく問題なかったことにとても安心したことを覚えています。
「あぁ、自分がいつ休んだって平気な状態っていいな」
と思いました。
自分じゃなくてもいい、替えがきく仕事だけをやり続けたい、というのとは違くて、自分だからできることによって得られる充足感は必要だと思うのですが、なんだろう、あの頃みたいなきつさはもう耐えられないなぁ、という感じかもしれません。
あ、無自覚に自分を追い詰めていたからしんどかったのかな。
誰かに強要されたわけでもなく、自分で自分の首を絞めていた。そのことに気づかず、どうしようもなくなって初めて苦しかったことに気づく。
自分の意思で選んだ結果の「自分にしかできない」ならいいのかも、と思えました。
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『深い雑談』というものをやっています!
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