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一匹の蛾

気がつくと、空を飛んでいた。

羽を生やし、空を舞っていた。懸命に二枚の羽を羽ばたかせ、地に足がつかないように努力する。小刻みに、身体を揺らし、できる限り重力に逆らっていた。

しかし、本能では抗えないこともあった。私は光を視た。感覚器官がとらえた光の指す方へ、ぱたぱたと吸い寄せられていた。見ると、周りには同じような虫たちが、同じように光へ吸い寄せられていた。
その時はじめて、それが蛾の大群で、つまりわたしもその一味であることに気づいた。

周りの蛾はどれも似たり寄ったりだった。羽は小汚く、澱んだ色をしている。気味の悪い脚を忙しなく動かし、生きようともがいている。羽を休め、静止している者もいるが、飛んでいる者はみな一様にゆらゆらとしながら、光を目指していた。

あまりに強い光が身体をチリチリと焦がしているのがわかった。人だった頃、アトピーに侵された肌に熱湯をかけると気持ちの良かったことを思い出した。チリチリと焼かれ、それでも光に近づくのをやめられない。白飛びして、仲間の姿は既に見えなくなっていた。

わたしは近くを飛んでいる仲間に話しかけることにした。「ご機嫌よう、気分はいかが」すると相手は「ご機嫌よう、とても良い気持ちだよ」と応えた。わたしは続けて「今日は光がとても強いね」と話すと「あぁ、とても美しいですね」と返ってきた。
それからしばらく、わたしはその仲間と飛び続けた。一緒に飛ぶのは、一人で飛ぶのよりも気持ちが良かった。人だった頃のことは、既によく思い出せなくなっていた。真っ白の世界で、二匹の羽虫が飛んでいる。会話をしながら、一つの目的をもって飛んでいる。それがこの場の全てだった。

次第に光が弱まり、小旅行の終わりを予感させた。真白の世界にも陰が差し込み、幾千の蛾たちが一斉に姿を現した。
わたしは振り返りつつ、お礼を述べた。「今日はあなたのおかげで充実した時間になりました。どうもありがとう」すると相手は、こちらに向き直って「こちらこそありがとうございました。またいつかお会いしましょう」と言って飛び去って行った。


それは、真白い羽を生やした、一匹の蝶だった。

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