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27.国破れて山河もなし? 縄文土器は火焔ではなく水紋、水の宇宙を忘れた日本の行方。

国破れて山河あり」という言葉で始まる漢詩があります。中国で栄華を極めた唐の時代の詩人である杜甫の詩です。
いまの日本の状況をみていて、ふとその漢詩が頭を過ぎるときがあります。「日本が壊れた後、はたしてそこに山河はあるのだろうか」と。

唐は300年にわたって世界的な繁栄と影響力を築き上げた大帝国でした。日本からは空海が仏教の勉強のため唐へ渡っていますね。
中心都市の長安は世界最大で最も国際的な都市でした。杜甫がこの長安に移り住んで10年を経たとき、安禄山の乱によって長安が陥落してしまいます。このときに詠んだのがこの詩というわけです。
次に全文を紹介します。

【春望】杜甫
国破れて 山河あり 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙をそそぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火(戦火) 三月に連なり 家書(家族からの便り) 萬金にあたる
白頭掻いて 更に短かし(心労のため髪は白く薄くなり)
渾べて(まったく)簪(かんざし)に たえざらんと欲す

要約すると「戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、町は春を迎えて、草木が生い茂っている。
時世のありさまが悲しくて、(平和な時は楽しんだ)花を見ても涙を流し、家族との別れがつらくて、(心をなぐさめてくれるはずの)鳥の鳴き声にも心が傷む。
戦いは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)もさすことができないほどだ。

杜甫は国が壊れても山河は変わりなくそこにあり、それが平和だったころを思い出させて悲しいと詠っているわけですが、私はもしかすると日本が壊れたとき、平和だったころを思い出させてくれる山河は残っていないかもしれないと危惧しています。
なぜかというと、いま日本ではソーラーパネルによって山が壊されてきているからです。
次の写真をご覧ください。この山、美しいですか? このような息詰まる風景のもとで気持ち良く生活することができますか?

こんなことができるのは、それこそ神を畏れていないからです。私はかねてより「山は神」と言い続けていますが、その根拠は山は私たちの命を支えてくれるものだからです。食べ物の宝庫だということもありますが、何よりも「水」の源だからです。

私たちが飲んでいる水は、空の雲から落ちてきた水が山肌に染み込み、山の地層の中を通って沢に染み出し、それが流れとなり岩や石の間を通り、磨かれて磨かれて人里へ届いたものです。

実は、水は構造が複雑で、未だにその振る舞いの不思議が解明されていないといいます。水の分子は1秒間に1兆回も回転して構造を変化させているということが最近の研究でわかってきたとのことです。単純に酸素と水素で構成されているH2Oですということではないのです。

人間の体の70%は水です。水が私たちの命を支えていると言っても過言ではないでしょう。
水の働きで忘れられがちなのは「水は情報伝達物質」ということです。人体の細胞の日々の働きを考えてみてください。それぞれの細胞は、誰に命令されるでもなく、正確に働いて私たちの体を保っていてくれます。

なぜそういうことができるかというと、細胞間で情報のやり取りができているからです。人体には弱い電流が流れています。それがパルス(電気信号・周波)となって心臓や手足が動きます。それを媒介しているのが水なのです。

また、体液は栄養素と老廃物を運び体温調節もして体の環境を一定に保つ働きをしています。これを「ホメオスタシス(恒常性)」と呼びます。
体液をコントロールして人間の自然治療力を高めて病気を治療する療法で「ホメオパシー療法」というものがありますが、これは「ホメオスタシス(恒常性)」から由来しています。

石油から作られる化学薬品」を世界に広めて大儲けしたロックフェラーが、自分が病気になったときの治療法として知られているのも、この「ホメオパシー療法」です。彼は自分が売っている化学薬品を決して自分の体にいれることはありません。これがどういうことか、お察しください。

人は1カ月ぐらい何も食べなくても生きていられます。しかし、水を飲まないと4〜5日で死にます。それほど人体にとって水は重要なものです。
いま備蓄をされている方は多いと思いますが、食糧だけでなく飲み水のことも考えた方がいいと思います。
で、その水を生み出しているのが山なのです。

上記の写真のように、山をソーラーパネルで被ってしまっては、山は水を地層に取り入れ濾過して磨くことができません。樹木を抜いてしまっては、山崩れを引き起こし、山そのものの形体を保つことも難しくなります。
また、雑草が生い茂ってしまってはいけないので、定期的に下草を刈る必要がありますが、コストダウンのため除草剤を撒くのだそうです。人体に有害な除草剤が土壌に染み込んで、それが水に溶け込んでしまうこともあります。

さらに、山を被ったソーラーパネルはいずれ劣化します。その劣化したパネルを撤去するのに、いったいどれだけ費用がかかるか、考えて設置しているのでしょうか。さらに、撤去せずに放置してしまうこともあると思います。そうなってしまった場合、どれだけ土壌が汚染されるか、考えるだけでも恐ろしくなります。

かつて秦の始皇帝は方士の徐福に「日本にあるという不老不死の薬を探してくるように」と命じたという伝説があります。徐福の伝説は日本にも中国にも多々あるのですが、私は徐福が見つけた不老不死の薬というのは、日本の「」だったのではないかと妄想したことがあります。

日本の地形は山の造作が複雑で、水がより磨かれる恵まれた土地だという説があるのです。四季があるのも恵まれていると思います。日本の自然の美しさは独特のものがあると思うのです。
で、徐福も日本が気に入って居着いてしまい、その集団が「秦氏」という日本古代史が好きな方々の周知の仮説につながり、弥生時代が始まったというのが私の妄想です(笑)。

話が逸れましたが、私がいま「」に注目しているのは、縄文時代を調べていて気づいたのですが、縄文時代の代名詞のように言われている「火焔土器」ですが、私はあれは「水紋土器」だと思うのです。

笹山遺跡から出土

土器のふちの装飾が炎のようだから「火焔土器」と言われているようですが、私にはこの模様は水しぶきに見えるのです。胴体の渦巻きは水の渦です。
歴史家であり美術史家としても知られる田中英道さんも、同様の説を展開しておられます。
というわけで、縄文時代の人々は水の重要性を理解していたのではないかと思うわけです。たぶん、を医療にも応用していたのではないかと思います。の使い方を熟知し、の働きを神聖視していたのではないかと。それはを介した宇宙観ともいえると思います。
美術的には北斎が描いた波の絵にも通じるものがあるのではないでしょうか。

小布施の豪農に依頼された祇園祭の山車(だし)の天上絵「濤図(なみず)」の
「男浪・女浪(おなみ・めなみ)」一対。

いま、私たちは「」の重要性を再認識すべき時期にさしかかっているのではないか、そんなことを考えていたある日、私はひとつの映画に出会いました。『杜人』というドキュメンタリーです。

造園家で環境再生医でもある矢野智徳さんの活動を追った映画で、彼が山の空気と水の流れを読みながら山を再生していく過程が描かれています。彼の考えは、人間が呼吸し血液が全身を巡るように、山も空気を呼吸し水が血液のように循環しているというものです。
よくよく考えてみれば当たり前のことで、山も人間と同じように生きており、それも命であるわけです。本当は、山と人間は切り離すことはできないのではないでしょうか。

矢野さんの考えでは「山崩れは山の深呼吸」、息が苦しいから大きく動くわけです。彼は山崩れの現場にも赴き、山崩れの原因を探って風が通るように草を刈り、水が気持ち良く流れるように水路を整えていきます。
彼の考えや行動に啓発されて、生き方を変えていく人々の姿もありました。

山の状態は私たちの体の状態と同じだと思います。山が死んだら私たちも死ぬ。そういったすべての命を包括し「循環する宇宙」に対する想像力が、いま私たちに必要なものだと思うのです。
いまになって気づいた方も多いと思いますが、日本の政府は国民のために税金を使ってはくれません。私たちの血税は、日米合同委員会や統一教会に吸い上げられていました。それでも多くの人は相変わらず朝から夜まで奴隷労働で疲れ果て、自分の頭で考える余裕がない日々を送っています。
しかし、もう仕方がないとやり過ごす時期は過ぎてしまったと思います。考えることを怠ると、気づいたときにはすでに足をすくわれているということになりかねません。そうなってしまうと起き上がるのはかなり難しくなります。

国が崩壊する方向へ向かっていることは、多くの人が薄々感じ始めているのではないでしょうか。文明というものは滅びるものです。それは歴史が語っています。また最初からやり直さなければならないときは必ず来ます。そのとき、果たして日本に山河は残っているのでしょうか。山河さえあれば、国がなくなっても何とかなりそうな希望がもてます。それが私たちにとっては資産になると思えるのです。

希望をもって生きたいのであれば、私たちは「美しいもの」「好ましいもの」に対する感性を失ってはいけないと思います。そしてそれを大切にする気持ちも失ってはいけないと。
いま、日本人の精神性が試されているときだと思うのです。

そんなときに、矢野さんのような方が存在し、それに続こうと考える人々がいるのは希望だと思います。どちらの方向へ向かって生きていくのか、それはあなた次第です。
次に矢野さんの言葉を紹介します。
「杜」とは、この場所を「傷めず、穢さず、大事に使わせてください」と人が森の神に誓って紐を張った場』。

この情報を鵜呑みにはしないでください。必ず自分で情報を追って自分で確かめて自分の頭で考えてください。
これらの情報をどのように解釈し、どの道を行くか、それはあなた次第です。


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