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哲学#018.触ることで開けていく世界、皮膚も考える。

皮膚は嘘をつかないと思います。
触覚は、人の感覚器官のなかで最も精度が高く重要なものだとさえ思えるほどです。人は脳で考えているのかもしれませんが、皮膚がなければ、それは正しく機能しないとさえ思います。
 
目は口ほどにものを言う」と言いますが、も、ものを言うと思います。好意をもっている人に触られるとうれしいですが、嫌いな人に触られると「虫ずが走る」ほど不快に感じてしまいます。
肌が合う(気性が合う)」「肌を合わせる(心を合わせる)」「一肌脱ぐ(他者のために身を入れて尽力する)」など、が関連する言葉は何か「」とか「感情」のようなものに微細にかかわっているように思えるのです。

スピリチュアル界隈ではよく、「」は「魂の器」と言われます。このことを勘違いして「」は「重要ではない単なる器」と考える人もいるようですが、それは大間違いだと思います。
確かに「」は「」の下位にあると思いますが、しかし、「」のサポートがなければ、「」も磨かれることはないと思います。なぜなら、「」は「体験」を必要としているからです。「体験」は「」を通すことでしか得ることはできません。
 
人間は五感を通して外界を感知します。五感とは、視覚聴覚触覚味覚嗅覚のことですね。
で、現代の人々は「体験」というと「視覚体験」を重視します。旅行に行くとやたら写真を撮りまくるのも、その現れだと思います。世界を把握するには視覚が最も優れていると思いがちです。
しかし、視覚触覚に比べると、それほど情報処理能力が優れているわけではないのです。
 
その証拠に、超微細な世界を探るナノテクノロジーの分野で活用されている顕微鏡は、触覚的手法による「走査トンネル顕微鏡」です。
どういうものかというと、電子顕微鏡のように光や電子線を原子に当てて視覚的に観察するのではなく、微弱なトンネル電流を流しながらプロープ(探針)で表面を走査する(触る)ものなのです。
表面の凹凸だけでなく表面電位なども知ることができるので、より多くの情報を得ることができるというわけです。
また、このテクノロジーの優れた「可能性」は、対象を観察するだけではなく、働きかけること(行為)もできるという点です。
 
人の触覚のセンサーである皮膚は、人のからだ全体を覆う感覚器官であり、「外部」と「」の間にあるミステリアスな「境界」です。そして、「境界」であるがゆえに、「外部(外)」と「体(内)」に向かって常に開かれた状態にあるわけです。
その情報処理能力の凄まじさを想像するだけで、めまいがするほどです。
 
人は恋をすると、その人の体に触りたくなります。普通はそれを性欲と認識するのかもしれませんが、私はそれだけではないと思います。それは何か「知りたい」とか「確かめたい」とかという欲求のように感じることがあるのです。また、何か原初的な指向性のような感じがすることもあります。
 
映画『リベリオン』【※1】は、そのような触覚のミステリアスな面を描いた優れた映画だと思います。この映画は、「触覚」と「感情」と「言葉」の関係をよく表していると思うのです。
物語の設定は、第3次世界大戦後の近未来。独裁者はこれ以上戦争が起こると人類は滅亡するという方便のもとに、戦争の原因は人の感情の衝突であるとして人々の感情を抑圧する恐怖政治を行っています。
 
感情を抑圧する方法は、日に何回か、決められた時刻に小型のピストルのような形をした器具で感情抑圧剤を首に注射するのです。それを実行しない人間は逮捕されて処刑されます。人々は感情を殺され、都市からは有機的なものが排除され色も消えています。
また、感情を誘発する映画や絵画、音楽や本なども禁止されています。

政府は、感情を殺すことに抵抗する人々(反逆者)を取り締まるために、クラリックという法の執行官(警察)を組織しています。
で、そのクラリックの中でも特に戦闘能力に優れた最強の人としてプレストンという主人公が登場します。彼は自ら反逆者のアジトに突入し、ひとりで何十人もの相手を瞬時に殺してしまう必殺仕事人です。
プレストンがなぜそのようなことができるかというと、相手の動きを瞬時に予想する勘と、それに対応する身体能力が優れているからです。

ある日、プレストンはいつも一緒に行動している同僚が、反逆者のアジトから押収したイエーツの詩集を自分のポケットに入れていることに気がつきます。
同僚も反逆者のひとりではないかと疑ったプレストンは追跡の末、同僚が自らそのイエーツの詩集を読んでいる現場にたどり着くのです。そこはかつて反逆者が多数摘発され今は廃墟となった地域です。ステンドグラスを通して月の光が差し込んでくる教会の中で、その同僚(パートリッジ)は詩集から目を離さず言います。
やはり来たか
 
パートリッジは、優秀なプレストンが、いずれは自分のことに気づくに違いないと観念していたようなのです。彼はプレストンには目もくれずイエーツの詩を読みあげます。【※2】
貧しい私は夢を見るしかなかった。
 夢を君の足の下に(ひろげよう)。
 そっと踏んで(歩んで)ほしい。私の大切な夢だから

 そして次のように言います。
君も夢を見るだろう?
 
意味が理解できないプレストンは言います。
寛大に処置させる
パートリッジプレストンのかみ合わない会話が続きます。
中央の者に寛大さなどないさ
気の毒だ[I'm sorry]
(君は)その意味をわかっていない。気の毒と感じたことなどないはずだ。プレストン、大切なものを失った。人間性を捨てたんだ
戦争も起きず、殺人もない社会だぞ
我々の行為(殺人)は?
問題ない。違反者たちは感情をむき出しにしていたぞ
大きな犠牲だ。(喜んで)償いはする(責任はとる)[I'd pay it gladly]」【※3】
 
パートリッジは「I'd pay it gladly」と言った後、自分の拳銃に手を伸ばします。
その瞬間、プレストンの銃がパートリッジを打ち抜きます。
パートリッジは、拳銃に手を伸ばすと自分は殺されることを知っていたはずです。にもかかわらず、連行されて処刑されるより、この場でプレストンに殺されることを選ぶわけです。なぜなら、彼はプレストンが悪い人ではないことを知っており、感情を開くことができれば信頼できる人物になるということも知っていたからです。彼は自分の死の衝撃で、プレストンの感情を誘発する可能性に賭けたのです。

つまり、パートリッジは自分の夢をプレストンに差し出し、彼の歩む道にひろげたわけです。
 で、ポイントは、プレストンが「気の毒だ[I'm sorry]」「(喜んで)償いはする(責任はとる)[I'd pay it gladly]」という言葉を知っていても、その意味がわからないということです。私たちの間でもよくあることです。人は饒舌に言葉を交わしているけれど、同じ意味で言葉をとらえているかというと、疑わしいものだと思います。
 
それはたとえ親子の間でも容赦なく可能性のある断絶だと思います。なぜなら、人は生まれただけでは人間にはならないからです。まっとうに養育されなければ人は何十歳になろうとも人間にはなれないものだと思うのです。
 
また、ひとくちに「感情」と言っても、脊髄反射的な感情と、脳と身体の感覚を総動員した感情とはかなり違っています。それは爬虫類と人間との違いぐらいの隔たりがあると思うのです。
その違いのポイントは、感情をどこまで「他者」に沿わせることができ、「言葉」の意味を理解できるかということだと思います。
 
プレストンは感情はありませんが勘に優れ、また、「誠実」で自分や他者に嘘をつけない人物だったため、パートリッジが自分に投げかけた言葉が気になってしまういます。「納得」できなくなってしまうのです。
彼は「このままでいいのか。いけないのか」というハムレット状態【※4】に陥ってしまいます。彼は感情抑圧剤を自分に注射するのをやめる「決断」をしますそして、反逆者の世界に興味を持ち始めるわけです。
つまり、反逆者の世界が「他者」として彼の前に立ち現れてきたということです。
 
で、身体能力が優れている彼はどうしたかというと、頭で考えるだけでなく、まるで幼児のように、反逆者の世界にあるもの、反逆者が隠し持っていた芸術品や道具に触っていくのです。
 プレストンがいつもはめている黒い革手袋を脱ぎ捨て、好奇心いっぱいの幼児のように、あらゆるものに素手で触って感情を開いて確かめていく様子は、観ていてゾクゾクするほどです。私だけでなく、それらのシーンは、この映画でも好きなシーンとして他の人々の評判も高いです。
なぜ、多くの人がゾクゾクするかというと、やはり触ることで感情が開くことを、多くの人が知っており、共感(感応)するからだと思います。

感情が開いていったプレストンは、徐々に言葉の意味を理解していきます。
まずは、初歩的な「気の毒だ[I'm sorry]」を理解して自分が殺したパートリッジの遺体を前に涙します。そして問題は、より高度な「(喜んで)償いはする(責任はとる)[I'd pay it gladly]」です。
 
これは、幼児ではなく、社会の一員としての大人の感覚がなければ理解できない言葉です。なぜなら、単に「刺激に対する反応」という単純な感情システムしか持ってない人には理解できない観念だからです。つまり、「自己」と「他者」の区別がついており、それがその間に成り立っている「社会的な言葉」であるということを認識していなければ「意味」を理解することはできません。
 
で、自他の区別は、やはり皮膚の刺激を通して実感されていくものだと思うのです。幼児はいろいろな人に触られて可愛がられた方がスムーズに大人になれると思います。医学の分野でも、未熟児のケアなどは「タッチケア」という、できるだけ触ってあげることによって成長を正しくうながす方法が注目されてきています。社会学者のジョージ・ハーバート・ミードも次のように述べています。
 
認識の源泉は、接触経験である。これによって、有機体の外の世界は、有機体の中に持ち込まれる。これが認識のもっとも基本的なものである。離隔経験は、そこに行けば接触経験が可能になる、ということで、リアリティが成立する。この離隔経験と接触経験はシンボルによって媒介される。知能とは、記号を用いて離隔経験と接触経験を結びつけることなのである」【※5】
 
で、プレストンですが、自ら「決断」して、パートリッジが差し出した夢を引き継いで実現させ、最後に支配者を倒す決めどころでお約束どおりきちんと「[I pay it gladly](喜んで)償いはする(責任はとる)」【※6】と言ってのけるのでした。格好いいのです。ここでまたゾクゾクしてしびれた人も多いようです。

なぜプレストンパートリッジの夢を引き継ぐことができたかというと、感情を開くことによって、パートリッジという「他者」の存在を知り、その「言葉」が自分の「外部」に広がっている社会的な関係を開くチャネルであることを認識し、探り続けた結果、パートリッジと同じような感情を「想像力」によって自分の中に喚起することができたからだと思います。
同様のメカニズムで言葉を獲得できた例としては、目も見えず耳も聞こえなかった奇跡の人ヘレン・ケラーという実例があります。【※7】
 
感情というものは、情緒というか何かつかみどころのない雰囲気のものとしてとらえられがちだですが、実は、「洗練された感情」は、かなり知的でロジカルな仕組みになっていると思います。
洗練された感情」とは、「自制心のある感情」です。映画の中でも「感情には代償がつきものだと知った。自制心をもっていないと、感情は暴走する」と語られています。「感情」と「自制心」はセットで考える必要があるものなのかもしれません。

 人は感情(感性)がなければ、他者と「共感」することができません。そして「決断」することもできません。
世界は存在するものではなく、行為され、感じられ、開かれ、変化するものとして、皮膚の向こうにあると思うのです。
ときにはに触ってみることもお勧めしたいと思います。
 

                                     
 

 【※1】映画『リベリオン−反逆者−』(原題:EQUILIBRIUM)(2002年/アメリカ)脚本・監督:カート・ウィマー 出演:クリスチャン・ベール
 この映画を哲学の観点から紹介しましたが、実は「アクション・ファンタジー」としても優れた映画だと思います。アクションも洗練されています。監督は「ガンカタ」という「ガン(銃)」と武術の「型(カタ)」を組み合わせたアクションを考案しました。二挺の拳銃を使って近接戦闘に持ち込み、多くの敵を短時間で射止める戦闘技法です。格好いいです。監督も自ら「ガンカタ」を「闘う哲学」と言っています(笑)。
マンガ『るろうに剣心』の作者として知られる和月伸宏氏は、かつて『GUN BLAZE WEST』という作品で「銃を使った接近戦」を描こうとして苦しんだ末に失敗してしまったそうなのですが、『リベリオン』を観て、その答がそこにあったことを知り「万感の思いとともにただただ、涙」(週刊少年ジャンプより)だったそうです。

【※2】
イエーツはアイルランドの詩人・劇作家で神秘的な作品で知られ、アイルランドがイギリスから独立を果たすまでの道のりとも深く関係しています。プレストンが読み上げた詩は、思いを寄せていたアイルランド独立闘争運動の活動家だった女性に向けたもののようです。この詩は前半が素敵なのです。「もし私に天上の刺繍が施された布があったなら、黄金と銀の光に包まれた、昼と夜とその間の、青と薄暗い青と漆黒とが織り成すその布を、君の足に下に広げたい。しかし、貧しい私は〜」と続くわけです。ロマンチックで美しいですね。耽美ですね。イエーツは耽美派詩人たちと「詩人クラブ」を結成していましたが、この集まりには拙稿「哲学#017.恋愛の真のゴールは結婚ではない。」で紹介したオスカー・ワイルドも参加することがあったとのことです。

【※3】( )内は私の補足、[ ]内は原語です。

【※4】拙稿「哲学#013.生か死か、このままでいいのか、いけないのか。」参照。
 
【※5】『個人と社会的自我』ジョージ・ハーバート・ミード著より
(小川英司・近藤敏夫訳 いなほ書房/1990)

 ジョージ・ハーバート・ミード(1863〜1931)は「シンボリック相互作用論(Symbolic Interactionism)」という、人間のコミュニケーションを「行為者の観点」から探っていこうという理論を最初に切り開いた人です。
 
【※6】
映画の日本語字幕では「死んで償え」となっていたのですが、それではちょっとニュアンスが違うと思います。やはりここは「I pay it gladly」ですから、あくまでも主体は自分です。相手に責任をとらせるのではなく、責任をとる決断をしたのは自分なのです。したがって、「償いはする」でなければ、パートリッジが「I'd pay it gladly」と言葉を手渡し、プレストンが「I pay it gladly」と決着させた意味がなくなってしまうと思います。

【※7】拙稿『哲学#008.「私」とは何か。』参照。
 

「認識のための人間の能力には、理性や悟性とともに『感性』がある」

カント

【後記】
触覚と感情が他者との「架け橋」になるという考察をしてきましたが、評判悪い「貨幣」も本来は他者との「架け橋」になるはずのものだったのですよね。次回はその問題点について語ってみようと思います。

 【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)


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