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哲学#004.真の幸せとは。

私は若いころ、親しい女子たちとの飲み会の後、「幸せになろうねぇ〜」と手を振って分かれるのが定番となっていました。
幸せ」とは何か、よくわからないまま、漠然と「それは人間にとって良いもの」というイメージがありました。そして、「人間はそれに向かって生きていくもの」という方向性も、なぜかわかっていました。つまり、「幸せ」を「目的」として生きていたわけです。

ところが、「幸せとは何か」という肝心の「目的の内容」がわからなかったわけですから、どこへ向かって歩いて行けばわからず、右往左往する時期がありました。
結婚すれば幸せになれる」という危険思想に犯されていた時期もあり、22歳で早々に結婚しました。
一般的に、好きな人のそばで眠ったり、一緒に食事をしたりするのは「幸せ」なことだと言われています。確かにそれはそのとおりでした。
新婚当初はまだ恋愛期間の延長のようなもので、向かい合ってお互いを見ていればそれで「幸せ」でした。ところが、結婚とは、恋愛期間の延長ではないことに、徐々に気がついていきました。気がついてみると、あたりまえのことではありますが…。

結婚すると、経済的なこと、生活スタイル、親族関係など、いろいろなことを考えて生活していかなければなりません。向かい合って得られる「小さな幸せ」だけでは、人生を乗り切ることはできませんし、「小さな幸せ」だけでは人間は満足できないことも知りました。何かもっと「大きな幸せ」があるような気がしました。「本当の幸せはこれじゃない」という感じです。
向かい合うのではなく、「同じ方向(目的)」を見て、人生を歩んでいくのが「本当の幸せ」だと思うようになりました。「大きな幸せ」を知ってこそ、「小さな幸せ」が活きてくるというような。

で、その「本当の幸せ」について、まだ確信をもって語ることができなくて思いあぐねていたころ、ひとつの事件が私に気づきの切っ掛けを与えてくれました。これは大きく視野が開けた瞬間でした。
その事件とは、2007年に歌謡界に発生したいわゆる「おふくろさん騒動」といわれているものです。日本歌謡史に残るであろう名曲『おふくろさん』の作詞を手がけた川内康範氏が、歌手が曲の前に勝手にセリフをつけ加えて歌っていたことに10年前から再三抗議していたのにもかかわらず、その歌手が誠実に対応しなかったため「もう歌わせない」と通告して話題になりました。
私も言葉にはこだわりがあり、勝手に作品に手を入れられることは好みませんので興味を持ちました。

おふくろさん』の歌詞は次のようなものです。
おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

おふくろさんよ おふくろさん
花を見つめりゃ 花にある
花のいのちは 短いが
花のこころの 潔ぎよさ
強く生きよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

おふくろさんよ おふくろさん
山を見上げりゃ 山にある
雪が降る日は ぬくもりを
お前もいつかは 世の中に
愛をともせと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

で、この歌詞で凄いなと思ったのは「真実」という言葉です。
お前もいつかは 世の中の傘になれよ」というフレーズは巷によくある精神論と変わりないように感じる人も多いかもしれませんが、そこに「あなたの真実」という重い言葉をプラスしているのが、物凄いところなのです。なぜここにこのような言葉をプラスしたのか、違和感を感じた人も多いのではないでしょうか。

この「真実」という言葉の意味は、一般的には「嘘や偽りのない本当のこと」と解釈されていますが、これが仏教的な意味になるともっと深くなります。それは「絶対的な真理(道理)」ということです。

お前もいつかは 世の中の傘になれよ」と「絶対的な真理」が、どこでどう結びつくのかというと、たとえば親鸞が「和讃(わさん)」などで語っている言葉に「真実明(しんじつみょう)」というものがあります。仏教に興味があって勉強したり、お寺で法話を聞く機会が多い人には馴染みのある言葉だと思います。

私なりの解釈では「」とは偽りへつらわないということ、「」とは内容のあること、「」とは明るいというかいわゆる幸せとか喜びとかそういうことです。
要するに「真実明」とは、「真に内容のあることをつかむことが幸せにつながる」ということだと思うのです。

そのことをふまえたうえで『おふくろさん』の歌詞を読むと、「いつか世の中の傘になる」ことが「幸せにつながる道」であり、それが「絶対的な真理」であるという「意味」がそこに立ち現れてくるわけです。
つまり、この歌は「真実」というキーワードによって、数学的規則性をもっていると思えるほど普遍的な「意味」の世界の扉が開く仕掛けが組み入れられているのです。私からみると『おふくろさん』は、それほどまでに物凄い歌だったわけです。

川内康範氏は北海道函館市のお寺で育ち、彼の母親は檀家の人々が供えた米やお菓子、果物がある程度たまるとリュックに入れて、「さあ、行くよ。黙って渡すんだよ」と貧しい人々に配って歩いたといいます。
そして「世の中にはやむを得ず、ああいう生き方をしなければならない人もいる。大きくなったら、人々に幸せをあげられるようになりなさい」と言っていたそうです。【※1】

つまり、彼は自分の母親から直接教わった「無償の愛」の精神を『おふくろさん』に込めたのだと思います。
無償の愛」とは、他者を生かすことによって己が生きるという行為です。自分ひとりの「損得勘定」の域を越えています。それがなぜ自分の幸せにつながるかというと、それが他者と喜びのある関係性をもって生きる道につながるからです。
そしてそれは、この不条理な世界でくじけることなく生き抜く力を得る方法でもあると私は思うのです。

いま、多くの人々は「幸せ」とは「自分の欲求を満足させること」と漠然とイメージしているのではないでしょうか。庭のある家を建て、車を持ち、家族みんなが仲良く、年に何回かは家族旅行できるような、そんな生活を「幸せ」と思っています。

しかし現実的には、庭のある家を建てることができるのは、ごく一部の勝ち組で、ほとんどの人々は庭のある家を夢見て奴隷労働にいそしんでいます。
また、庭のある家に住めているからといって「幸せ」であるとは限りません。勝ち組になるため弱者から搾取している人間は、ちょっと油断すれば自分が搾取される側に落ちてしまうことを知っています。そのため他者を信頼できなくなりますます孤立していき、その人にとって、世界は弱肉強食のジャングルとなります。

もちろん、弱者から搾取しているわけでもないのに勝ち組になった人々もいます。たとえば社会派作家のトルストイカート・ヴォネガット
トルストイは『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』という傑作を書き上げ名声と富を手にしましたが、いくら自分が頑張って啓蒙しても一向に社会から貧困がなくなる気配もなく、相次いで子供を失ったりしているうちに、「人はどうせ死ぬのに、なんでこんなに苦労して生きなければならないのだろうか」という疑問にとらわれて「幸せ」にはなれなかったといいます。
その苦しみの中で彼は、たとえ不幸が重なったとしても、そこから希望の可能性を見いだすことができるひとつの道を発見します。そしてそれを『人はなんで生きるか』という創作民話で表現してみせました。【※2】
内容をシンプルに言ってしまえば、「人は自分の欲求を満足させるために生まれてきたわけではない」ということです。

カート・ヴォネガットも『猫のゆりかご』や『スローター・ハウス5』などユーモアのある社会風刺でアメリカの学生に絶大な人気を誇っていましたが、2007年に亡くなる直前まで人類が地球の資源を孫の代の分まで浪費してしまっていることに心を痛めていたそうです。著書の中で「偉大な文学作品はすべて、人間であるということが、いかに愚かなことであるかについて書かれている」とか「人間というのは、何かの間違いなのだ」とかヤケッパチに述べています。そしてついに矢も楯もたまらず自分の息子に「人生って、なんだ?」とぶつけてしまったそうです。

で、息子のリアクションは次のようなものだったとのことです。
父さん、ぼくたちが生きてるのは、みんなで助け合っていまを乗り切るためなんですよ。たとえいまがどんなに悲惨な状況であろうとも」【※3】
ヴォネガットは「生きていてよかった」と思わせてくれるものに、音楽と「無償の愛」に生きる人々(聖人)との出会いをあげているが、その聖人に自分の息子も加えています。

このように、より良く生きたいとまっとうに考えながら生きている人が考えればたいていはこうなるでしょうという「コモンセンス(見識)」というものがあると思うのです。
つまり、『おふくろさん』という歌は、そこへ導く「道しるべ」でもあったのだと思います。その歌に歌手は次のセリフをつけ加えていたのでした。

いつも心配かけてばかり
いけない息子の僕でした
今ではできないことだけど
叱ってほしいよ もう一度

これでは川内康範氏が怒るのも無理はないと思います。
川内康範氏は自分ひとりの欲求を超えた大きな愛へ至る道を示しているのに、歌手は自分ひとりのちっぽけな欲求に矮小してしまっています。「おふくろさんの教えのおかげで自分もまっとうな大人として生きることができています。これからも頑張ります。ありがとう」という意味が「いけない息子で悪かった。いまもそのままだから叱って欲しい」になってしまっていたわけです。

世の中は不条理で悲惨ですが、よく目をこらして見ていくと、凄い人(達人)というのはいるものだと思います。そこにはまた別のひとつの世界が広がっています。
川内康範氏は月光仮面の原作者としても知られています。
月光仮面は、まだテレビが普及し始めたばかりの1958年から放送されたヒーロードラマです。白いターバンと覆面の上に黒いサングラスをかけ、白の全身タイツに白マフラーとマントをまとい、悪人によって危機に陥った人々の前に颯爽と現れる正義の味方です。

当時、テレビがある家庭の子どもはほとんど観ていたのではないでしょうか。私も観ていました。風呂敷のマントをまとい、おもちゃのサングラスをかけて走り回っていた記憶があります。
冒頭に紹介した画像の姿ですが、当時はそれがとてもカッコ良く見えました(笑)。

で、ターバンの前面に三日月のシンボルをつけていますが、これは月の満ち欠けを人の心になぞらえ、「今は欠けて(不完全)いても、やがて満ちる(完全体)ことを願う」という理想と、「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす」との意味が込められているそうです。
それで、なぜ「月光」なのかというと、人々の苦難を救済する「月光菩薩」をイメージしてのことなのだそうです。さすがですね。

そして、月光仮面は「悪人といえども懲らしめるだけで過剰に傷つけることはなく、命は決して奪わない」というのが基本でした。その背景には「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」という理念があったとのことです。
で、川内康範氏は「おふくろさん騒動」の後、その理念を「憎むな、殺すな、真贋(まこと)糺(ただ)すべし」と変更しています。これは許す前に「改心をうながす」ことが必要と気づいたからだと思います。哲学していますね。達人です。

川内康範氏の電子碑文。素敵な面構えですね。
©川内康範/川内文藝事務所

よく「人は幸せになるために生まれてくる」といわれますが、それは本当だと思います。「幸せ」とはどういう状態かというと、それは、自分が幸せになることではなく、人に幸せになってもらいたいと思えるその心そのものが真の幸せなのだと思うのです。

                                     

【※1】夕刊フジ「川内康範氏、独占手記」(2007/03/05)より
【※2】『人は何で生きるか』(レフ・トルストイ 著、北御門二郎 訳/あすなろ書房)
この民話は多数の翻訳者によって訳されていますが、北御門(きたみかど)さんの訳がお薦めです。北御門さんご自身が17歳のときに読んで感動し、翻訳者の道へ進むきっかけになったそうです。「トルストイは私を、人間としての真の幸福の道へ案内してくれた」と後書きにも書かれています。
【※3】『国のない男』(カート・ヴォネガット/NHK出版)より


幸せに必要なのは徳である。徳は言葉でも学問でもなく実践である。

ディオゲネス

きみたちは自分がなぜ生まれたのか考えよ。獣のように生きるのではなく、徳と知の探求に向かうため、生をうけたのだ。

ダンテ『神曲』第26歌より

【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考えること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること

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