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哲学#017.恋愛の真のゴールは結婚ではない。

恋愛の行き着く先は結婚ではないと思うのです。
今や恋愛結婚はあたりまえ、結婚は恋愛のゴールという風潮がすっかり定着してしまっています。しかし、私は疑問に思っています。人々は恋愛を間違って認識しているのではないかと思うのです。
 
恋愛、この12世紀の発明」と言ったのは、フランスの歴史学者シャルル・セニョボスという人です。この言説は、「恋愛」は人の本能的な働きではないということを示しています。「恋愛」は人によって発明されたものなのです。
12世紀に発明された「恋愛」とはどういうものかというと、それは「不倫の愛」のことです。具体的には騎士が自分の君主の奥方に捧げる「」です。つまり、当時は結婚に結びつかない愛が「純粋な愛」とされ、人々が憧れたのです。
 
では、12世紀より以前に「恋愛」はなかったのかというと、そうでもないようです。プラトンが「至高の愛(エロス)」について説いています。しかし、それはなんと「男同士の愛」なのです。なぜなら、男同士は「結婚」には結びつかないからだといいます。
起源がいつであるにせよ、「恋愛」の価値は「結婚」に結びつかないところにあったということは間違いないように思います。不思議なことに、この認識は時間や空間を超えて共通だったのです。

私もかつて読んでいた少女漫画に次のようなセリフがあって、恋に憧れた時期もありました。
無防備に恋をしたいわね。人のものでも、高嶺の花でも、世間が許さなくても、後ろ指さされても、好きだってこと以外なにも考えないで

以上のことが何を示しているかというと、「恋愛」といのうのは「観念」であり「文化」であるということです。そこには「遊び」の要素が潜んでいるように思います。
よく恋愛が破綻して「あれは遊びだったの!?」と怒る人がいるそうですが、本質が「遊び」なのだから仕方がないのです。
 
しかし、たかが「遊び」されど「遊び」なのです。なぜか「遊び」はしばしば強力なエネルギーを発します。
恋に溺れてしまうと、仕事どころではなくなります。お互いを見つめ合うあまり周囲が見えなくなります。ときには反社会的(背徳的)になり、すべてを破滅に導いてしまいます。
 
詩人・作家・劇作家のオスカー・ワイルドは、恋愛の破滅的な傾向を次のように書いています。
神は不可思議だ。神はわれわれの悪徳のみを懲らしめの道具とするものではない。神はわれわれのうちの善いもの、やさしいもの、親切なもの、思いやりふかいものを通してわれわれを破滅に導きさえする」【※1】
 
ワイルド耽美派の作家として知られる人です。「」というものに興味をもった人は一度はひっかかる作家ではないでしょうか。やんちゃなエピキュリアン(快楽主義者)もひっかかりやすいと思います。
しかし、ワイルドの世界に魅了される人は多いですが、ほとんどの人はワイルドの世界を生きようとはしません。なぜなら、それはあまりにも代償が大きいからです。
 
ワイルド自身も当時禁止されていた同性愛の罪で2年間も投獄され、破産し、妻子にも見離され、46歳で亡くなっています。
長生きしようと思ったら、人は恋愛の世界に長くいられるものではないようです。
 
ワイルドの代表作は、戯曲「サロメ」です。新訳聖書のマタイ伝とマルコ伝に出てくる古代イスラエルのヘロデ王、ヘロデヤ王妃と連れ子である娘のサロメ、そして洗礼者ヨハネの話を元に、一幕ものに仕上げたものです。今まで何度も大舞台で上演され、何度も映画化されている人気の作品で、サロメ役は大女優たちの憧れの役でもあります。
 
それほどまでに人々の心を虜にするサロメとは、いったいどういう役どころなのかというと、これが意外なことにヨハネに片想いする美しい王女なのです。
ヨハネを手に入れることができないと知ったサロメは、ヨハネの自由意志を断つ、つまりヨハネを殺してまで手に入れたいと思うわけです。
で、ついに彼女は「銀の大皿にのせたヨハネの首」を手に入れるという狂気の物語です。オーブリー・ビアズリーの絵が有名ですね。

オーブリー・ビアズリー作。オスカー・ワイルド著『サロメ』の挿絵です。

で、洗礼者ヨハネはどういう人なのか知っておいた方がこの物語の深さがわかると思いますので、少し説明します。
彼はヨルダン川でイエス・キリストに洗礼を与え、その後、断食させながら荒野を彷徨わせ、悪魔の誘惑を断ちきらせた人といわれています。つまり、イエスの先導者のような立場だったわけです。いわゆる「」のトップのような人です。
聖書においては重要な人物で、レオナルド・ダ・ヴィンチカラヴァッジオが絵画を残しています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の絵画と考えられています。溢れるような豊かな巻き毛、
たくましい体、まるでモナリザのような微笑み。サロメでなくても魅せられてしまいます。美術史家のポール・バロルスキーは「暗闇から現れた聖ヨハネを、まさしく精神と肉体の間の曖昧さを拡大して描いている。異様なほど官能的な刺激を持っているダ・ヴィンチの人物の優雅さは、それにもかかわらず、聖ヨハネが神からもたらされる恵みの充足について話すときに言及する精神的な意味を伝えている」と評しているそうです。同感です。
カラヴァッジョ作。光と影の使い方が絶妙で質感がリアルに感じられますね。ヨハネはイエスより年上ですので、髭を生やし痩せこけた中年男性として描かれることが多いですが、若々しい青年として描いているところが斬新ですね。そして暗く翳る瞳の思慮深そうな端正な顔! 思わず「何を考えているの?」と声をかけたくなります。

以上のように、後世の画家にとっても魅力的な題材だった洗礼者ヨハネ。そのことをふまえて戯曲「サロメ」を考えると、より興味深いものが見えてきます。
洗礼者ヨハネは、ヘロデ王がサロメの実の父でもある兄を殺し、兄の妻だったヘロディアスを自らの妻としていたことをとがめたことからヘロデ王の怒りを買い、隠し井戸に幽閉されているという設定です。

私の戯曲「サロメ」のイメージは、ケン・ラッセル監督の映画『サロメ』に近いです。多くの舞台や映画ではサロメ役は、妖艶な大人の女性が演じていますが、この映画で演じているのは、なんと少年っぽい顔つきをした12歳ぐらいの少女です。「好きな人の首だけでも手に入れたい」という無邪気な欲望は、大人の女性というより、まだ分別のない少女の発想だと思っていた私のイメージとピッタリでした。【※2】

また、これは「狂気」「邪悪」「」「」の物語ですから、ビジュアル・スキャンダリストという異名もあるケン・ラッセル監督独特の毒々しいほどのキッチュで鮮やかな色彩の美術が退廃的で耽美的で見事な人工美に彩られています。
おまけに舞台はオスカー・ワイルドが行きつけの男娼館で、館主がオスカー・ワイルドひとりのために、彼の友人や館のスタッフで戯曲を演じるという設定で、そこもユニークです。

で、舞台ですが、「狂気」の象徴である月の光があふれるテラスでヨハネを見て恋をしてしまったサロメヨハネに次のように告げます。
私はお前の体に恋をしたわ。お前の肌ほど白いものはこの世にない。その体に触れさせて

なんと、サロメの恋の対象は、ヨハネの体なのです。 
サロメが触れようとすると、ヨハネは言います。
さがれ! 女を通して悪魔はこの世に入る。私が耳を傾けるのは主の御声だけだ

サロメは怯(ひる)みません。
私が恋しているのはお前の髪よ。お前の髪ほど黒いものはこの世にないわ。その髪に触れさせて
私に触れるな! 主の神殿を汚すな
私が恋しているのはお前の唇よ。お前の唇より赤いものはこの世にないわ。その唇に口づけさせて
触れるな! ソドム(退廃)の娘よ
 
ヨハネに拒絶されたサロメでしたが、ここでメソメソと引き下がらない気の強さが、また人の心をとらえるわけです。
サロメは、彼女の美しさに魅せられている義父ヘロデ王の弱味につけ込んで利用することを策略します。で、ヘロデ王は宴の席でサロメに懇願するのです。
踊ってくれ、サロメ。もし踊ってくれたら望むものを何でも取らそう
 待っていましたとばかりにサロメは要求します。
ヨハネの首をちょうだい。銀の大皿にのせて
 
望みが叶えられたサロメは、銀の大皿にのったヨハネの首に向かって言います。
さあ今、お前に口づけしてあげるわ。熟れた果実を噛むように、お前の唇を噛むわ。(中略)お前は美しい。なぜ私を見ないの、ヨハネ。お前はお前の神を見たのね。でも私を、お前は決して見なかった。(中略)一目でも私を見ていれば、恋をしたはずなのに。恋の不思議は、死の不思議よりずっと大きいのよ。人はただ、恋さえ見つめていればいいのよ

人の道を外れた行為だとは思うのですが、なぜか美しいのです。「狂気」「退廃」「破滅」などが、人の心を奪ってしまう面があるというのは不思議なことだと思います。
しかし、これを凡人がやってしまったら、おぞましいだけです。美しいサロメが月の光の下で、銀の大皿にのった美しいヨハネの首に向かって言うから美しいのです。そして、なぜこれが美しいのかというと「ファンタジー」だからだと思います。現実の世界ではないからです。
 
要するに、「恋愛」とは「ファンタジー」なのだと思います。両想いの場合でもお互いの「ファンタジー」がかみ合っているという確証はありません。いわゆる「恋に恋している」状態なのかもしれません。賢人は、これを「幸せな誤謬(ごびゅう)」と言います。
この事実は何を示しているかというと、「恋はいつかは冷める」ということです。
 
恋が冷め、「遊び」が終わり、日暮れて黄昏が訪れたとき、人はどこへ帰るべきなのでしょうか。色あせた相手をどう扱えばいいのでしょうか。ここが重要なポイントだと思います。
ファンタジー(夢)」の世界と「現実」の世界の両方を視野に入れ、どう「行為」していくかということが、ここでも重要になってくるわけです。
現実の世界で結婚するというのなら、相手が色あせても、一緒に生きていく「友達」として「信頼」関係を保つ「知恵」が必要になってきます。
 
結婚とは真摯で厳粛な一大事業です。いい加減な気持ちでしてはいけません。また、いいことばかりでもありません。食事の支度、子どもの世話、掃除、洗濯、労働、親戚や社会との付き合いなどなど……膨大な雑事もこなしていかなければなりません。それを認識せずに「恋愛」的なものがないといけないと思い込むから「つじつま」が合わなくなってしまい、人は結婚と離婚を繰り返してしまうのだと思います。子どもがいい迷惑です。
 
つまり、「結婚」は「恋愛」の延長線上にあるものではなく、まったく別のモード(回路)、ベクトル(方向)なのだと思います。このモードの切り換えがうまくいかないと、結婚は破綻すると思うのです。
恋が冷めた後に、2人の間に「友情」が残り、結婚というモードに切り換えることができる人間関係ができあがっていれば、結婚というシステムも悪くはないと思います。

ただし、その「友情」ですが、相手が病気などで動けなくなったとき、その人を支えていく「覚悟」が自分にあるかどうか、よくよく考える必要があると思います。それがなければ、「結婚」という人生道場に踏み込むべきではないとも思います。注意をお願いします。

で、「恋愛」は「遊び」の一種であり「道楽(趣味)」であるということと、代償が大きいことを充分承知のうえなら、極めてみるのも一興だとは思います。
ただし、「恋愛」と「性欲」の区別もつかない野暮天は決して踏み込んではいけない領域なので要注意だと思います。「恋愛」と「結婚」をめぐる混乱の原因のひとつは、単なる「性欲」を「恋愛」と錯覚することにもあると思うのです。
 
恋愛」や「遊び(道楽)」は観念的・文化的なものであり、ある程度「教養」や「洗練」が必要です。真の遊び人に対する誉め言葉は「粋(いき)」です。
粋(いき)」とは「美学」のことです。「野暮」なことはやらないようにコントロールする「理性」や「節度」が必要です。現実の人生において成長を続け、納得した死を迎えたいと思うのであれば。
 
サロメのセリフのように「恋の不思議は、死の不思議よりずっと大きい」面もあるとは思います。
恋愛」は、危ういバランスをかいくぐり洗練されれば昇華するのかもしれません。プラトンの説く「至高の愛(エロス)」は、「」を超越し「肉体」を突き抜けていくはずなのです(プラトニック・ラブ)。たぶん(笑)。
ルネサンスの人文主義者エラスムスは次のように書いています。
 「人間は生物の中で一番悲惨だ。その理由は、どの生物もその本性の分限内で生活することを承諾しているのに、人間だけが、その分限を越えようと努力しているからだ」【※3】
 
恋愛」は歌や芸術を生み出すパワーもあります。また、「」にもつながっています。しかし、それは自然美というより「人工美」のような気がします。なぜ人間がその領域に魅了されてしまうのか。不思議です。
それは、生まれてきたことへの「反逆」ではないかと考えたこともあります。そのような生とは逆のベクトルの精神も人間には必要なのかもと。その逆のベクトルが「」と思われるものも「疑う」という哲学の基本につながるような気もします。
もしかすると、車のハンドルの「遊び」のように、人間にもそのような「遊び」が必要なのかもしれません。目的地へ行くために。


                                     

 
【※1】『獄中記』オスカー・ワイルド著より(福田恆存訳 新潮文庫[廃版])
 
【※2】映画『サロメ』ケン・ラッセル監督(1987年/アメリカ映画)
文学史上最もスキャンダラスなエピソードに彩られた人物で耽美派文学の最高峰のオスカー・ワイルドの戯曲を、ビジュアル・スキャンダリストと言われるケン・ラッセルが映画化。最も神秘的で最も世紀末的な雰囲気をもつといわれる洗礼者ヨハネに対するサロメの愛と憎悪。反社会的な退廃美に溢れる映画です。興味ある方は堪能してください(笑)。

【※3】『痴愚神礼讃』エラスムス著より(渡部一夫訳 岩波文庫)


「結婚すれば幸せになれるという危険思想には絶対にかぶれないように」

河合隼雄(心理学者)


【後記】
 サロメは「」と「触れる」ことにこだわります。オスカー・ワイルドの洞察には興味深いものがあります。「」と「触れる」は「恋の不思議」に大いに関係しているような気がするのです。そのことを考えていて、映画「リベリオン−反逆者−」を思い出しました。人間が「戦争」や「破滅」へ向かってしまうのは「感情」があるからだとして、「感情」をもつことを禁止した社会を描いたものです。「感情」を否定するのですから「芸術」も否定します。映画の中で「モナリザ」の絵を焼いてしまうシーンもあります。次回はそのあたりについて語ろうと思います。



【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)

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