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私たちのゆくところ


海から始まる、空の物語を始めよう。

運命というのは、わからないもので、必ずしも自分の思ったように行くとは限らない。
期待しすぎて、すべてがだめになることもあれば、全く予期せぬタイミングですべてがとんとん拍子でうまくいくこともある。

昔から、何かあるごとに両親や島のおおばあちゃんが口にしている言葉だ。

私は、島で生まれた。
周りはもちろん海で囲まれ、山と言ってもこんなにも小さな島だ、丘程度の高さのものしかない。
生まれてからずっと、島から出たことのない私は、ここ以外のことはほとんど知らない。両親も大して外の世界に興味がないようで、特別、話をしてくれることもなかった。幼い頃は外の世界があることすら、私には考えもつかなかったものだ。
生き物も、人間も、ここでは何も変わらなくて、本当に、本当の意味で共に生きていると思う。
人間は、他の生き物よりも知恵を持っているかもしれない。コミュニケーション能力だって、感情だって何万もの枝葉に分かれるように、繊細で言ってしまえば複雑だ。
でも、ここに住んでいる間は、それも『人間』という生き物が持つ個性に過ぎない。ただ、それだけのことだった。それでも別の動物からしてみたら、“ひと”というのは特異なものらしく、
『人間って、不思議だね。』
と、度々、彼らからは言われた。
『まあね。』
と、私はこたえた。
でも、人間もそれ以外の動物も、その日その日を生きる。ただそれだけなのは、同じだと思う。

梅雨に入って二十日も経つというのに、未だ雨が降らずにいると、アンテナの錆びついたラジオが教えてくれた。たしかに、しばらく雨を見ていない。浜でぼんやり波を眺めていると、呼ばれた気がして私はばしゃばしゃと海の中へ入っていった。
むんっと暑い空気とは裏腹に、まだ太陽を迎えたばかりの海水はひんやりと冷たかった。それでも朝からこの太陽だ、すぐにあたたまってくるだろう。潮は満潮を迎えている。たっぷりとした波に身をゆだねる。体が水温に慣れて来ると私はそのまま岩場の方へと向かった。
海に潜る私の横を、ウミガメが泳ぐ。彼は、目を少し細めて私に挨拶をした。私も、挨拶をし返す。

『塩の流れはどうだい。』
『少し変わってきたね、本格的に夏がくる。』
『うん、そうか。』
『うん。』
『今日もよい一日を。』
『うん、あなたも。』

実際に言葉を交わすわけではない。感覚で流れてくるものをキャッチして、それに対して返すだけ。言葉は、大して重要ではない。結局、何を感じたか、なんだと思う。
そして何を感じたかに良い悪いはなくって、海の中の潮のように、空を翔ける風のように、流れていく。ただそれだけ。
ただ、言葉で語り継がなくてはならないものがあることも、確かだ。

空。

そう、空と言えば、空からやってきたと言う女の子がいた。

名前は、琉璃という。

彼女は、よく外の世界のことを知っていた。でも、
「どこから来たの?」
と、尋ねても、
「空。」
と言うだけだった。
私は
「そっか。」
と答えた。
彼女は、うちに来てから、本当によく眠った。気づいたら全く起きずに一日中眠っている日もあって、さすがに心配になった私は、彼女の肩を揺らし起こした。
「んあ…。」
彼女はまだまだ寝足りない様子で、寝ぼけたまま口を開いた。
「このまま死んじゃうかと思ったよ。お腹、すかないの?」
私の言葉がまるで異国の言葉で理解できないかのように、彼女は首をかしげた。
「おなか…。」
「そうおなか。」
私が、おへそのあたりを抑えてみせると、
「ああ、うん、そういえば。」
と、まるで他人事のように答えた。
彼女はたまに私の言葉がわからないようなことがあった。でも、その度に身振り手振りや、彼女の知っていそうな言葉で説明するとすぐその言葉を理解した。発育が遅いのかとも思ったけれど、単純に言葉を知らない、という風だった。
赤ちゃんが段々とひとの言葉を覚えていくように、彼女は少しずつ、私たちの生活へと順応していった。
「琉璃は、今、いくつくらいなの?」
「いくつ?身長?」
「歳だよ。年齢。」
「ああ、年齢。うんと、おなじくらいだよ。」
「私と?」
「うん。」
本当かどうかわからない調子で、彼女はこたえた。
私と同じなら、思ったよりも…。
ちなみに、私は二十二歳だ。今年で二十三歳になる。
私と同じなら、思ったよりも、彼女の見た目は幼い。
どう考えても、五つは幼く見える。
「?」
彼女は私の視線に気づき、首を傾げてみせた。オヒアのように赤い頬が彼女をさらに若くみせた。
私がウミガメや他の生き物と話をするように、彼女は星と会話する。
ある夜、彼女が空に向かって何か呟いているのを見た。私の知らない言語、と言うよりも、音そのものを発しているその姿は、彼女が本当に空からやってきたのかもしれない…と私に思わせた。まだ、半信半疑ではあるけれど。
彼女はこちらに気づくと、にこっと微笑み、手招いた。私はおそるおそる近づき、彼女が伸ばす手を掴んだ。
その手を掴んだ瞬間、頭の中いっぱいに小さなきらめきが溢れた。まるで、新しく宇宙が生まれたみたいに。
私はくらくらして倒れそうになりながら、彼女の腕の中で必死に立ち続けた。彼女はイルカに似た声で私の耳元で何かささやくと、再び夜空を見上げた。そして目を閉じ、深く深呼吸すると、“どっどっ”と、彼女の心臓の鼓動が深く、私にも響いた。

ある日、彼女が急に、
「思い出した。」
と、言った。
「何を?」
と聞くと、真上を指差した。
それから数日、彼女はすこし寂しそうにずっと黙っていた。そんな彼女のまわりには鳥や蝶など、小さな生き物たちが慰めるように集まった。
彼らから聞いた話によると、彼女は元いた世界で「大切なひとを助けられなかった。」と嘆いていて、それで、この地に降りて来たらしい。彼女は、自分だけがぬくぬくと暖かく暮らしていることが許せなかったのだろう、と彼らは言った。
十分、ここでもぬくぬく暮らしているように見えるけど…。
そう思っていたら、心を読んだように急に彼女が話し出した。
「自分に罰を与えるために降りてきたのに、みんなが優しくて、どうしたらいいかわからない。ごはんも、毎日おいしい。おしゃべりも楽しい。」
彼女は本気で困っているらしく、もうすでに半分ぐらい泣いている。
「ぶはっ。」
私は逆に、面白くて本気で吹き出した。そんな私を彼女は不思議そうに見つめた。
「なんで、笑う?」
怒ってるでも、悲しんでるでもない。本当に、わけかわからないという顔だ。きょとん、としている。
「なんでもない。あなたは、とても優しいのね。優しすぎるのね。」
「優しい…。」
一気に彼女の顔が曇った。
「優しくなんて、ないよ。」
そう言い放った彼女の顔は、急に大人びた気がした。そして、きっと厳しく海を見つめた。
見つめた先の海は、太陽の煌めきで眩しく光って見えた。それに負けず、空も澄み切って青く、宇宙がすぐそこにあって、伸ばせば宇宙を掴むことができるんじゃないかと思うほどの透明感だった。
一匹の赤い鳥が、彼女の肩に止まる。
『もう、行くの?』
『うん、もうそろそろね。』
『私、あなたのこと、好き。いかないで。』
『私も君が好きだよ。でも、もう、これ以上甘んじてはいけない…。これでは、私が私を許せないんだ…。』
私は、彼女達の会話が直接頭の中に聞こえてくるのを、驚きながら静かに聞き入った。
赤い鳥は首を傾げる
『そう?そうなの。許すとか、許さないとか、私にはわからないけれど…。まぁいいわ。また、あなたがここにくる季節がやってきたら、一緒に歌いましょうね。』
『うん、ありがとう。』
赤い鳥は、彼女の頬に自分のくちばしをすりすりと擦りよせると、空高く、飛んで行った。
「どこに、行くの?」
彼女は驚いた顔でこちらを見た。
「今、勝手にあなた達の話してることが聞こえたの。私、動物の言ってることがわかるから、それと同じで、テレパシーしたのかもしれない。」
私は慌てて、弁解をするように説明した。
今日は島のおばばが雨だと言っていたけれど、そんな気配が全くなく、青い空に気持ちのいい海風が吹いている。その風に耳の下あたりまでの髪の毛をなびかせながら、私は彼女の返事を待った。汗と湿気がまとわりついた肌に、この風は心地がいい。しばらくしてから、やっと彼女は重い口を開いた。
「わからない。けれど、ここの人達は優しすぎて、私は甘え過ぎた。こんな風にしていたんじゃ、私は…。」
彼女の胸に秘めた想いは相当強いようだ。私はその、彼女のどこに向けてかもわからない訴えに耳を傾けていた。

「ねぇ、海に行くよ。」

私がそう言うと、彼女は少し困った顔で私を見つめたが、構わず彼女の手を引っ張った。彼女は、気持ちとは裏腹に、わざと体重を後ろに乗せ、嫌がる子供のように抵抗した。
私にはわかる。彼女が、本当は罪から解き放たれていること。でも、彼女自身が、それを手放したくないと強く抱きしめていることを。
彼女は、今までみたことのない怖い顔をしてて、わたしの手を解こうとした。すると、
「私は、良い子なんかじゃない!」
彼女が、あまりにとんちんかんなことを言い出すので、
「ばか!誰もあんたが良い子だなんて思ってない!」
と、勢い余って言ってしまった。その勢いに気圧されて、彼女は尻もちをついた。
「は…。」

それから彼女は私に手を引かれるままにずるずると歩き、二人で海へと向かった。服のままじゃぶじゃぶと海の中に入っていき、両手をつないだまま海に潜る。途中、彼女が私に向かって何か言ったようだけれど、気にしない。色とりどりの魚たちが群れになり泳いでいる中、私たちは抱き合った。
この辺りの主であるウミガメが、近づき、私たちを見る。そして、円を描きながら踊るように回った。
ウミガメは、
『あなたは、よくやった。そうだろう?』
と、ひとの言葉で頭の中に囁いた。
「そんなこと…。」
そう心の声が聞こえ、彼女は隣で泣いていた。ぽろぽろと、まるで大粒の真珠のような涙だった。ウミガメは彼女を慰めるように鳴き、彼女の周りをゆっくりと回りながら泳いだ。

その夜は、ふたりでずっと黙っていた。でも、何をするにも、ふたりで一緒にいた。
ごはんも、もくもくと一緒に食べた。海で取れた魚をスープにして、朝焼いておいたパンとサラダと一緒に食べた。
食後には、ぎゅっと味の濃い、甘くてすっぱいオレンジを食べた。
私がシャワーを浴び終えると、彼女はソファで眠っていた。泣きはらして疲れた顔をしている。きっと、泣き疲れて眠りたいのを私が離れるまでずっと我慢していたのかもしれない。
私は彼女にやさしくブランケットをかけた。

朝起きると、彼女はいなくって、ブランケットはきちんと畳まれてソファに置いてあった。ざらっとした、光るものを見つけ顔を近づけると、彼女がいたところには、星の砂が溢れていた。

「空に還ったのかしら…。」

彼女が、本当に空から来たのか、なぜ、ここに来たのか。真実はわからない。でも、私は、彼女がとても愛しいものに感じた。

突然やってきて、突然去っていった彼女。
彼女が去った後も、この島の時間は変わらずに流れていった。
『やあ、最近、やっと雨が振りだしたね。』
『うん、今年の梅雨は空梅雨で、みんな水不足だって困ってたから、よかった。』
『海にはこんなに水があるのに、不思議なものだね。』
『うん、困っているのは人間だけなのだけれどね。』
今日は、赤い鳥とこんな話をした。
『そういえば、あの子、結局どこにいったの?ほら、あの、ちょっと他所からきた感じの…。』
『琉璃は、気づいたら、いなくなっちゃってた。ソファに星の砂を残して、ね。空からやってきたと言っていたけれど、本当に、そうだったのかもね。今更それを認めようが、これから永遠に認めなかろうが、この世界の何にも影響するわけじゃないけれど。』
くすくすと、赤い鳥は笑った。
『君は、まったく、人間だなあ。』
つられて私も笑う。
『そうさ、人間さ。』

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