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【かわいい子には】哀れなるものたち【旅をさせよ】

 近所の映画館で平日に鑑賞。
 R18ということで、落ち着いた客層。とてもよい環境だった。

 ヨルゴス・ランティモスの作品は「聖なる鹿殺し」あたりから監督名を認知し始めたのですが、それ以前にも「籠の中の乙女」や「ロブスター」とかは見ていたので、テイスト自体は前から大好きだったようです。
 そんなわけで「哀れなるものたち」。映画館にあったチラシのデザインに惹かれ、監督の名前を確認したら──! だったので、いそいそと見に行きました。
 感想は1回だけの視聴での印象で書いてますので、細かなセリフなどはうろ覚えであることをご了承ください。



ジャンルとしては、SF? ファンタジ-?


 実在する国や都市の名前は出てきますが、その町並みはデフォルメされ、異世界のようにも見えます。主人公のベラを始め、その他の人々の衣装も時代を特定できない。とある時代の誇大表現のようにも見えるし、近未来のように見える。土地の固有名詞のみが、鑑賞者のイメージを支えている。
 前作の「女王陛下のお気に入り」が、歴史コメディとはいえ、その世界観はガチガチの史実に基づいて作っていたっぽいところを見るに、、なんか思うところがあったのかもしれない(笑)
 ──と、ここまで書いてきて、あの世界は、ベラ自身が初めて世界に触れた、その印象を表したものなのかもしれない、と思いました。序盤、モノクロで描かれるのですが、旅に出たあたりから画面に色がつく? 1回だけの鑑賞での感想なので、そのへんをちゃんと見ていませんでした。モノクロだぁ、と思ったのに、いつの間にかストーリーを追うのに忙しくなった。2回目の機会があれば確認したいです。


「哀れなるもの」とは何か


 早々に核心に迫りますが、タイトルの「哀れなるものたち」。これは誰を、もとい何のことを表しているのだろうと考えたとき、この映画のラスト数分の怒濤の展開を通して、「社会生活を営む全人類」なのかな、と思いました。
 事前情報をあまり入れずに鑑賞しに行きましたが、タイトルといい、R18といい、主役が女性といい、あまりいい結末を予想していませんでした。話の展開も、自慰による性の目覚めから、愛人としての旅路、そして売春婦としての生活。字面だけ見ると悲惨のように見えますが、その割に内容はとてもポジティブだと思いました。すごく前向きな映画だな、と。
 が、「上映時間終了30分くらい前から、どうまとめてくるんだろう?」からの、「そういうオチで来たかぁ」と内心で唸ってしまった。
 英語が聞き取れるわけではないので、字幕での情報のみですが、作中で「哀」という字をで使っていたのが、ごく初期の頃、ゴッドとベッドで寝そべりながら、自身の両親の最期を聞いたとき。ベラ自身が「哀いそうなベラ」と己を評価していました。これも、2回目の機会があれば、確認したいポイントの一つです。

「常識とは大人になるまでに集めた偏見である」


 ラストシーンを見たとき、自然とこの格言が頭をよぎりまして。改めて調べてみたら、かのアインシュタインの言葉であった──ということで、本作は「医学」、ひいては「科学」というものに根ざした、人間性への探求であることを考えると、「科学者」として偉大なるこの人の言葉が思い浮かんだのは、当たらずとも遠からずだったのかもしれないと、自分の感想に少し自信が持てます。
 この映画、マックスとの結婚式のシーン、その直前まで、本当によくできた人情話、その典型なんですよ。生まれも育ちも風変わりな女の子が、紆余曲折を経て、真の愛と、己の使命に気が付く──その使命は「医者になる」という養父の志を継ぐ形で、真の愛は同じくその志を受け継ぐ弟子でもある、自身をずっと見守ってきた人が伴侶になるという最高の形で。
 正直、私だって「医者になるわ」から、マックスと森の中を一緒に歩きながらの求婚のシーンでは、うるっと来ましたよ。隣の女性なんか、号泣してたもん。ただ頭の片隅で「ヨルゴス監督、あったかい映画も作れるじゃん?」って思ったのは覚えている──そこに、母体であった人の夫、登場。
 この時点で、映画が終わりの30分くらいを切っていたので、え?終わるんか?これ、どう決着つけるんか!?とめちゃくちゃ不安に思いながら、何なら投げっぱなしエンドも覚悟しつつ、それでも絶賛したいぞ、と心に決めながら終わりを見守って──そういうことかぁ、と五体投地したい気持ちになりました。


ベラの成長① 性の目覚め


 胎児の脳を、その母体に移植されてこの世に生を受けたベラ。肉体と精神の成熟が不釣り合いである彼女がそのまま社会に出たら、どんな形にせよ、害されることは察してあまりある。それゆえに、養い親のゴッドは、監禁に近い形で彼女を養育します。そこに彼の「親」としての愛があったこと否定できないと思います(自身の実験の隠匿という意味以上に)。
 それら一連の行動を彼は「実験」と称していますが、自身が父親から受けたさまざまな「実験」による化け物のような見た目を持ってしまった、それゆえに受けた迫害は、外科の名医という立場を得た今も、続いています。「我が家が一番安全である」という刷り込みも、ベラをそんな迫害から守るため。
 しかし、ゴッド自身が理解、もとい期待しているように、ベラの成長は著しい。その「優秀さ」が何に起因するかはわかりませんが、彼女は急速に知恵をつけていきます。
 ベラの発達段階が通常と違うのは、「成人女性の体に胎児の脳みそを移植された」という点で、肉体の成熟とともに精神的な成長も・・・・・・という正常な発達が見込めないことにあります。その意味で、彼女は「障害者」であることは間違いない。
 ベラの自我の獲得は、性の自覚とは切っても切り離せないもの。「孤独でも幸せになる方法」として、自慰を表現しているとおり、彼女にとって性の喜びはそのまま「生」の喜びに繋がる。
 閉塞したその環境を憂いたゴッドは、散歩に連れ出したり、自身の弟子を彼女の伴侶としてあてがおうとしたりする。彼の良識的なところはこういうところで、娘の幸せを思って、その欲望を「社会通念に適う」形で成就させようと試みる点にある。しかし、その思惑は外れに外れ、結局マックスとそのまま結婚するのではなく、彼女を「冒険」へと向かわせざるを得なくなる。
 ここの展開で面白いのが、「駆け落ち」を仕掛けたダンカンとの思惑とは別に、(黙っていた方が「良識のある社会」的には通例であろうが)ベラは真っ向から父と(その伴侶)に「冒険」への許可を求めるところ。
 私はここ一連の流れが非常に好きでして、ベラ自身が世間の常識とは違う価値観で生きていること、ごく自然の形で自身の正当な「権利」として世界を知る権利を主張していること、この両方が同時に見える。何よりゴットとマックスを愛しているがゆえに、自身の願いを受け入れてほしいという想いがあるのがですね、とてもいいです。
 その手段が若干、脅迫的になったのは否めないですが・・・・・・。この辺はイヤイヤ期という印象がありました。親は、危険を承知で、子供の手を話さなければならないときが来る。


ベラの成長② 世界を知る


 「性の喜び」を知ることから出発してしまったベラは、その後もそれをトリガーに世界に触れていきます。
 生まれが生まれなので、通常の生まれの人の発達段階とは違った段階を追っていますが、ちゃんと人間的な「成長」をしているのが面白い。
 特に船で得た友人二人──悟りきった老淑女と黒人の青年との関係がよかった。この二人との会話のきっかけも「性的なもの」なのですが、彼らはそこにあまり興味がないので、ダンカンとの熱烈ジャンプに不満を抱いていたベラは、逆に興味をそそられる。そこから、セックスよりも本を読むことに熱中していく。ここからの彼女の精神的な成長は目を見張るものがあります。
 最初の土地のホテルで、泣き叫ぶ幼児に「うるさい」と食ってかかろうとしていた彼女が、貧困で死にゆく赤ん坊を見てひどく取り乱すまでになる。ベラちゃま、どうしちゃったんだよ?と見ているこっちも動揺してしまいました。
 売春宿での生活も、いろいろな人間に触れることがより彼女の成長へと繋がっているように見えました。女の方が選べばいい、という主張を、店長のばあさんに口八丁でやりこめられているのを見るあたり、まだ子供のような感じはしますが。
 対するダンカンが、どんどん落ちぶれていくのも対比として面白かった。ここが、今作のコメディを支えている部分でしょう。ダンカンは、遊び人を気取っていますが、あくまでも「良識のある社会」という枠組みの中でちょっとそこから逸脱する程度の「遊び人」であり、はじめからそんな常識を持ち合わせていないベラに振り回されるのは仕様がないというか。それでも、魅力ある彼女から逃れられない。
 売春婦であることを彼からやじられたとき、ベラが「あなたとはもう終わった」「自分で稼いでいるの」とサクッと言い返しているのを見たとき、だいぶ大きくなったなぁ、とじんわりしてしまいました。


ベラの成長③ 「親」との別離


 そんな「冒険」も、ゴッドの死期をきっかけに終わりを迎えます。
 死に際の養父に寄り添い、彼と父との関係を聞きながら、「医者になる」と宣言するベラの美しさと強さと賢さよ。マックスとのプロポーズも、「よりよい社会になること」を信じる、人間に絶望していない彼の考えを知り、自分と共に歩むべき人だと、改めて理解しての大団円。ここの二人の雰囲気、とってもよいです。
 童話「青い鳥」のように、本当に幸せはおうちにあったのだ──という感じで、結婚式へ。めでたしめでたし、・・・・・・かと思いきや。ここからがヨルゴス映画の真骨頂です。
 自身の肉体であり、「母」であった人の夫。遺伝子的には自分の「父」であろう男の登場。ベラのことを記憶を失っただけだと考える彼は、妻を連れ戻そうとします。
 ベラは、それにすぐに応じる──ここに来て、また「冒険」に出るのか!? 俺たちの旅はここからだエンドなのか!!とドキドキしながら見続けましたが。 しかし、考えてみれば、「自身のルーツを知りたい」というのは人間の根源的な願い。彼女がそのために元夫の要求に応じたのだろうことは、よくわかります。
 そして、ベラは「母」の自死の理由と、「父」の人間性を知る。「肉体」であった彼女とは違う人間であることをはっきりと悟り、元夫のこいつとは一緒にいられねぇと、さっさと館を逃げ出します。さまざまな修羅場をくぐり抜けてきたベラちゃまなので、この辺、見ている側のハラハラ感とは反対に、やたらあっさり対処するw
 何というか、映画の全編通してそうだと今になって気付きますが、彼女は個人でどうにかできる問題についてはどうにかする力も知恵も勇気も持ち合わせている人間なんですよね。強いわ、この子。


ラストシーンに込められたもの


 銃で足を撃たれた元夫の身体を引きずりながら、自身の家に帰り着いたベラは、彼を助けるよう、マックスに頼みます。「また君を害するかもしれない」という彼に、ベラは「前進させる」と応える。で、手術のシーンで、子ヤギがアップされ──結果だけ見れば、ロボトミー手術だよ、あれは!?
 ここで、一気に映画のテーマに混乱する。
 主要人物たちはこうして「めでたし、めでたし」となったけれど、本当にこれは「世界の改善を祈る主人公」の想いに適っているのか? 都合の悪い、良識から反する人間の脳みそをいじることが、世界をよくする方法? 人権とは何か? ──などの、疑問が駆け巡りながら、冒頭の「常識とは大人になるまでに集めた偏見である」という言葉が思い浮かんで、すっと納得してしまった。
 ベラはその生まれも育ちも考え方も「通常」と異なる生き方をしてきた。しかし、彼女なりに「良識」が何かを学んだ。よりよく生きる方法。みんなで向上する社会を目指すには──けど、スタートがスタートなので。彼女にとって非人道的な「実験」も、進歩のためには手段の一つに過ぎない。彼女だって、養父のゴッドだって、そうして進歩してきたのだから。
 しかも、ラストシーンにいるハッピーエンドな人々はゴッドの研究に賛同していた人々ですから、当然彼女の選択を責めるはずがない。彼女は父の志を受け継ぎ、医者になる道を進んでいるのだから。
 というわけで、「偏見」がないからこそ、痛快な言動で成長してきたベラちゃまでしたが、彼女には彼女の培ってきた「常識」ができあがっていた、というわけです。人間が、人と関わる社会的な生き物である以上、その周りから受ける影響はどうしようもない。途中まで、彼女に何か、今の閉塞した社会に対する「救い」みたいなものを見ていた私は、ここでガツンと頭をやられてしまった。


それでも、彼女は美しい


 とはいえ、ゴッドが「変わった生育環境」で天才外科医となったように、ベラもまた同様に、社会的にも何かしらの革新をもたらすとは思う。それこそ、世間一般的な「常識」がないからこそできる発想で。
 それが人道にもとるかどうかは二の次として、やはり彼女の生き方を応援したいと思ってしまうのが、この作品の最大の魅力でしょう。その意味で、脱落したのがダンカンで、寄り添ったのがマックスだった。
 彼女の「冒険」はまだまだ続くし、私はもう見ることはできないけど、頑張ってほしいな、と思います。

2回目も行きたい


 初回の感動をできるだけそのままにまとめようとして、あんまりうまくまとまっていなかった。非常に示唆に富む作品なので、見る人によってかなり印象も考えるポイントも異なると思う。
 これから人の感想を読み漁ったり、パンフレットを読んだり、2回目を見たりしたいです!
 また思いついたら、感想を書くかも!

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