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クーピーでいえば白(生成り色1)

【生成り色(きなりいろ)1】

 岩原マキヨは、スマートフォンの画面を見て悩んでいた。
メッセージを送ろうと思っている相手は、三田寺洋子だ。アイコンは韓国の歌手が映っている、うちわ。
 推し、がいるって言っていたっけ…。
 それを見ただけなのに、マキヨの心が和んだ。ラインの名前を見てほっとしながら、あんなひどいことをしてしまったのだ、おいそれと連絡するなんて、図々しいだろうか…。
 ダンスサークルのグループは退会した。と言うより、そちらは消えた。喜美江が仕切っていたからだ。
 あの後、俵は大変なことになったらしい、と、仲間が教えてくれた。電車の中の行動が直正に伝わり、ひどく怒られたのだと。
 あの電車の乗客の中に、俵の後援会関係者がいたらしく、噂が徐々に広まったほか、事務所へ抗議の電話や、SNSの投稿などもチラホラとあるという。
 多分、あの乗客の中の誰かだろう。だったら、あの場で喜美江を罵ってくれれば良いのに…後援会の人間は、どんな気持ちで見ていたのだろうか…。
「もし別れたりしたら大変だよね。マキちゃんのせいにされるかもよ?でも、また直正さん戻ってきたりしてね。」
 銀歯を見せながら、ダンスサークルの一人がマキヨに言った。この人たちには、楽しい噂話のネタでしかないだろう…。
 高校からの友人同士、しかも親友とさえ思っていたような人間と…男を取り合い、一人は政治家の嫁、もう片方は寝取られた、冴えない独り身の老女、可哀そうな女…。
「岩原さん、いつもおしゃれですね」
 洋子は言った。
「ダンスしやすそうだし、雰囲気に合っててカッコいい」と…。
「あら、ありがとう。洋服は昔から好きでね。あんまり人とかぶるのが嫌いだから、自分で作ったりするの」
「ええ?そうなんですか?器用なんですね」
「昔ね、衣料関係の仕事をやってたの。最初はスーパーに入ってるブティックの店員。そこから、バイヤーになって買い付けに行ったりしたのよ」
「へぇ、だからセンス良いんですね。なんか、言い方は悪いですけど、普通のおばちゃんじゃないって言うか…」
 言いながら洋子は、首をすくめた。きっと、お世辞でもなく言っているのだろうと思う。
 シンプルだが、本人も麻の生地でできた、ゆったりとした花柄のワンピースを着ている。
「三田寺さんも可愛らしいわよ。シンプルだけど上品。もしかして洋服好き?」
「そうなんです」
 ぱぁっ、と、洋子は目を輝かせた。
「娘が二人いるんですけど、同じものを着たくて…でも、もうこんな年だしって思ってしまって、結局、こう、無難になっちゃうけど」
 と、笑った。
「まだ若いんだから、好きなことしないと。でも、良いなぁ、娘さんが二人かぁ…」
「あ、ごめんなさい。私…」
「良いのよ、今更どうしようもないんだから。今、甥っ子と姪っ子がいてね、その子たちと話すと楽しいの。今の子たちはおしゃれに敏感でしょ~?可愛い洋服たくさんあるわよね」
「そうなんです~。でも年が…体系も変わってきちゃって」
「あら、それもしょうがないわねぇ。どうしたって年はとるものね。気にすることないのに」
「はい、だけど少し絞ろうと思ってここに入ったんです。」
「じゃあ、頑張ってダンスしないとね。」
「はい。岩原さんみたいに、きれいに年齢を重ねる人になりたいんです」
 その言葉を聞いて、マキヨの気持ちがふわっと、軽くなった。何気ない会話の中なのに、こんな気持ちになるのは久しぶりだった。洋子は、本人が言うほど太ってもいないし、大きな子供二人がいるようにも見えない、若々しさも感じる。
 なんか…良いな。
 マキヨは自然と笑顔になった。
 もっと、話がしたい…そんな風に思える人は久しぶりに会った。
「ね、見て欲しいの。これも私が作ったのよ。」
 と、マキヨはスマホを見せる。母親が残した古い着物をリメイクして、巾着やエコバックを作っているのだ。誰にも見せたことはない。喜美江などに見せれば笑われるだろう。
 貧乏くさい、捨てなさいよ、みっともない、挙句の果てに買えないの?くらい言うだろう…。そうか、うちの俵のお金だもんね…と。笑いながら…。
 でも、洋子はキャッキャと言いながら見てくれた。すごい、きれい…。きっと、お母様も喜びますね…。
 マキヨは、ダンスサークルをやめようと思っていた。喜美江とのくされ縁を終わりにしたかったし、家族への俵の援助もだいぶ前から断っていた。もう、良いだろうと思って。
 ただ…喜美江が心配だったのだ。
 たくさんの取り巻きに囲まれてはいるが、結局、友人と呼べる人間は自分だけのようだ。子供の学校でも近所でも、偉ぶってはトラブルを起こし、そのたびに夫の職業をちらつかせていると、評判が悪い。後援会での素行も悪く、直正も辟易していると聞いた。
 政治家の妻、と言う立場を使って寄ってくる人間は友達を装い、実は喜美江を「良いカモ」としか見ていない。マキヨは近くにいると、気づいてしまうのだ。
 私しか、わかってあげられないからなぁ…。
 それは、喜美江にも、そして直正に対しても思っていることだ。彼とは時々、電話やメールで話を聞いている。直正は、政治と結婚したのだ。喜美江とではなかった…。
 彼を支えているのは、結局、私なのだ…と。

「離れましょう、マキヨさん」
 洋子は言った。作品を見たい、と家に尋ねてきた時だ。
「ダンスは別な場所でもできます。一緒に探しませんか?私、実はあそこ遠いから変えようと思ってたんですよ」
「でも…きみちゃんが心配なんだよ。私しか友達いないから」
「そうですか?たくさん周りにいますよ。俵さん、人気がありますから大丈夫です」
「きみちゃんが言うんだよ、私から離れないでよ、離れたら大変なことになるからねって」
「…大変なことってなんですか?」
「えっと…寂しんじゃないかなぁ?きみちゃんが」
「マキヨさんも寂しいですか?」
「寂しい…?」

 く、はない。マキヨは 即座に思った。
ずっと一緒にいた、高校生の頃からずっと…。彼女は大学、自分は就職して、そりゃいろいろあったけど、結局お互いに幸せに…。

 幸せに…?

「マキヨさん、ダンスの後、いつも俵さんたちといますね。行きたいと思ってますか?」
 毎回、俵の家に呼ばれては喜美江の自慢話に付き合わされる。何度か、洋子も行っていた。
 海外旅行へ行った写真、息子の留学について、娘の美貌は父親譲りで、こんなに高級なアクセサリーを買ってくれたの、という夫の、直正の話…。
 思い出しながら、マキヨは震えが止まらなかった。
 そのたびに、そう、すごいね、さすが喜美江ちゃん、俵さんはすごい人になったね…。最後に喜美江は必ず、こう言った。

「私と俵だったから、こんなに素晴らしい家族になったのよ」と…。

 次第に、そうだ、やっぱり私じゃダメだったんだ、そう思うようになった。
 彼の子供も産んであげられなかったし、家も貧乏で、迷惑をかけたかもしれない。喜美江の実家は建設業で、お兄さんも政治関係者…。
 そうだ、あの人たちは運命。喜美江と直正で良かったのだ…。

 違う…本当は…。

 こんなはずじゃなかった…。

 わぁあ…
 人目をはばからずに、こんなに大声で泣いたことはない。目から大粒の涙がこぼれた。洋子は、静かにマキヨの手を握っていた。
 子供のころからそうだった。父親が働かないから、母親は不機嫌で、弟二人の面倒を見ながら、自分のことは我慢した。お姉ちゃん、だったから…。
 家族がうまくいくように、何があっても笑ってきた。欲しい服が買えなかったから、親戚からもらうお古、を自分で工夫して直して着た。
 本当は…おしゃれがしたかった。大学じゃなくても、洋装の専門学校へ行って勉強したかった。おいしいおやつも、素敵なアクセサリーも…全部我慢して…。
 それでも、自分は幸せだと思った。思いたかった。惨めな自分を認めたくなかった。だから必死で働いて、家族も、自分も養えるくらい働いた。
 そして、出会ったのだ…俵直正に。
 彼だけだった、彼がすべてで…。
 政治の世界に入ったばかりの直正の目は、キラキラと輝いていた。
 僕らの子供が出来たら、たくさん学ばせよう、世界へ羽ばたくような子にしよう、温かい家族になろう、君の弟たちも心配いらない、僕が君を守るよ…。
 あんなに素晴らしい人だったのに…。

 なのに…。

 喜美江が言った。
「マキちゃんの胸…触ってる気がしないって。瘦せてるだけで、女を感じないんだって」
 可哀そうね…と、笑った。
 その頃から、記憶が曖昧だ。子供が出来ないという事実、直正の浮気、喜美江の兄から受けた言葉、政治という世界の黒さ…。
 現実を受け入れることができなかった。もしかしたら、直正が…という馬鹿な期待もしていた。だが、気づけば年ばかり取っていて…。
 全部、なかったことにした。喜美江とは親友で、その旦那さんとも仲良くしている良い関係、子供はいないけど甥っ子たちや母親にはお金の心配はいらない、
喜美江が、良くしてくれているから…。過去の記憶を、すり替えて生きてきたのだ。
 喜美江も自分を親友と言っている、だって高校生から一緒だもの、すごいのよ、政治家の妻、家柄も良くて、きれいな、友達…。
 嘘で固めた自分の記憶を植え付けた。

 自分を、消した…。

「大丈夫…マキヨさん、大丈夫」
 洋子は優しく手をさすっていた。
「良く頑張りました。しんどかったですね…」
「どうして、どうして私だけ…何もない、ただのおばあちゃんになっちゃった…。子供もいない家族もいない…好きな人も、夢も…でも、友達はいるって、
喜美江ちゃんだけはって…ああ、なんて馬鹿だったの」
「馬鹿なんかじゃないです。素晴らしいですよ、ご家族を支え、働いて工夫してご自分をきれいにされていました。私は、マキヨさんのことが大好きです」
 マキヨは、ハッとして息を止めた。
 大好きなんて言葉を、言われたことがあっただろうか…。
「ダンスが上手で、おしゃれで、自立されています。本当は明るくて楽しい方でです。だけど、俵さんといる時は違います。気づいてないかもしれないですけど、目が…生きていません。失礼なことを言ってごめんなさい。でも、私は守りたいんです」

 …守る?

「私のような人間に言われてもですよね…。でも、心配でした。私の母もそうだったから。」
「…お母さま?」
「はい。年齢は違いますが、記憶の中の母と重なりました。おしゃれで、一生懸命、器用で良く笑って…。でも…ある時からおかしくなります」
 洋子は、マキヨの手を握りながら、背中をさすりながら話し出した。こんな風に、誰かと抱き合うほど近づくことなど、長い間なかった…。
 背中に感じる手のひらの温かさは、マキヨの心を絆していく。洋子自らも泣いていた。
 もし、自分に娘がいたら…こんな風に感じたのかなぁ…。
 洋子とは、親子ほどの年齢差はない。だが、この子を抱きしめたい、泣いている彼女を…自分が守ってあげたい…。自然と洋子を両手で包み込んでいた…。
「母は、自殺しました…」
 マキヨは目を丸くして固まった。なぜもっと洋子の話を聞いてこなかったのか…。自分のことばかり話していた気がする。
 洋子は何不自由なく生きていて、子供がいて幸せで、だからこそ優しくて穏やかで…。
「勝手に幸せな人生だと…ごめんなさい…」
「良いんです。起きてしまったことはどうしようもないです。ただ…母を助けられなかったことを後悔してしまうんです。色々サインはあったのに、気づいてあげられなかった。」
「だから…私のことを?」
「心配しています。でも、母の代わりにとか、助けてあげようとかそういうのではなくて…。一緒にやっつけようと思っています。」
「やっつける?きみちゃんのこと?それが…お母さんのためになるとは思えないけど…」
「違います。自分の中の黒さを…いえ…弱さを、誰かに対する嫌な感情を、壊したい」
「…自分の中の黒さ…」
「そういう物は誰にでもあるし、嫌い、イヤ、むかつく…そんなこと山ほど思います。そういう相手もいる、母にひどいことをした奴らも、殺してやりたいって思ってしまうんです」
 いつも、穏やかに笑っている洋子は、涙でぐちゃぐちゃだった。気づくと自分も洋子の背中をさすっていた。
「うん…そうね、誰にもそんな気持ちはある。ごめんね洋子ちゃん、気づかなくて。全部出して、ね…」
 マキヨは、自分の心が穏やかなことに驚いた。こんなことを言えるんだ…。
 どれほど、憎んで、どれほど悔やんだか…。そしてどれだけ、自分を殺してきたのか…。気づかないふりをして笑ってきたけど、心はボロボロだった。
 でも、そんな自分にも嫌気がさした。だったら、幸せになれば良いじゃない、喜美江なんかほっとけばいいじゃない、他に良い男なんかいくらでもいるじゃない。直正を捨てたかったのに、出来ない自分が嫌いだった…。

 マキヨの腕の中で洋子は言う。
「自分が嫌いでした…。いつも、誰かを恨んだり、怒ったり、嫉妬して泣いて…。だけど、変われたんです。自分の子供たちに出会って、変われた…」
 と、鼻をすすり、ふう、と息を吐くと、自分の持ってきたトートバッグの中からハンカチを取り出し涙をぬぐった。
「過去の出来事が、私を縛っていて…母は、私の幼稚園時代の友人にいじめられました。いわゆる、ママ友です。」
 ママ友…。
 自分にはいなかったけど、喜美江とも近いかもしれない。取り巻きのほとんどは学校の役員関係で知り合い、ダンスサークルへ連れてきた人間だ。
 母親と言う立場になると、新しく友人になろうとするのは、たいがい子供のつながりが多いという。
「私の友人の母親たち…そこに母は依存してしまった。専業主婦でそこがすべてだったのだと…。子供は変化していきます。学校に入れば違う友人ができ、大きくなればなるほど違う世界が開ける。でも、母親は幼稚園時代の人たちとずっと一緒でした。」
「…似てるわねぇ、私たちと。もっと時間が長い分、離れるのはしんどいわね」
「はい…中でも一人、特に一緒にいた人がいて…買い物も旅行も、家にも頻繁に来ていて、私も友人の母なので、何も心配していなかったのですが…」
 と、言うと洋子は苦しそうな顔をして、少し黙った。マキヨは背中をさすりながら、静かに次の言葉を待った。
「お金を…取られていたんです。言葉で操られて」
「操られて?…」
「最初は些細な物から、飲み物を買う小銭がないからと母に買わせるように仕向けます」
「まあ、良くあることよね…。別なときに相手が払うとかで、やり取りはするけど」
「そうです、しばらくは仲良かったのですが、私が高校に入る時、友人は私立だったんです。その家は裕福でもなくて、近所で。私と同じ高校を受けたのですが、私は受かり、その子は落ちた」
「…それで?嫉妬したの?」
「と、思います。母は、関係ないと思ってました。子供同士のことだし、長い間親友だったのだから。でも、次第におかしくなります。買い物の駐車場代、ランチ代などを母に払わせるんです。」
「そんなの断れば良いじゃない、払う必要ない」
「彼女は母に言います。もうランチとか旅行とか行かれない、ごめんね、友達やめる、と…。」
「友達を?おかしな話ね」
「そう…子供の学費がかかってお金がない。私は貧乏だからみんなといるのが恥ずかしい。もう遊びに行けない、と泣きました。」
「そういうこと…」
「母は、親友のピンチを助けたかった。どこかに行くときは自分が車を出し、ランチ代を立て替え、旅行もホームパーティーも、友人がお金がないと言えば貸していました。」
「貸してる…つもりだったのに?」
「ある時、その人と別の知り合いが話しているのを聞いてしまいます。海外へ行く約束をしていて、お金の話になった時…大丈夫、私には「良い金づるがいるから」と…」
「…そんな…。それこそ、もう友達やめるって言ってやればよかったのに!」
「言えなかった。まさかって、彼女がそんな風に自分を見てるなんて思いたくなかった。だからその人に聞いたら…」
「認めたの…」
「…はい、しかも何人かで…う…」
 と、洋子は嗚咽を漏らした。母親の心境を思って苦しかったのだろう。マキヨは背中をさすっていた。
「良いのよ、話したくなかったら無理しなくていい…いつでも良いよ」
「…何人かが…手を叩いて大笑いしたって…」

 なんてことを…。

 女同士の一番黒い関係。典型的ないじめだ…。小学生のレベルのもの、いや、それ以下だ。だが、どうしてその話がわかったのだろう。母親本人から聞いたのだろうか?
「お母さんが、そう言ったの?」
「…母はその場で、なあんだ、良かった、と言って笑ったと…私の友人から聞きました。洋子のお母さんすごいねって、うちの母親が、お金に困ってなくて良かったって、笑ったんだよって…」

 子供たちの前で…。
 
 マキヨは苦しくなってうまく息ができなかった。情けない…なんてみっともない大人たちだろう…。
 知っていたんだ、その人が彼女の母親に嵩っていて、善良な人が騙されているのに、誰も助けなかった…。

 挙句の果てに、馬鹿にして笑った?

「母は何も言わなかった。その友人から聞くまで何も知らなかった!でも、それが問題になって、近所や学校で噂になって。友人はごめんねって、母親が馬鹿でごめんねって謝ったのに、その人は最後まで自分は悪くないって。そっちが勝手にやったんだって!お金は返さないって!結局、旦那さんが少しお金を払って引っ越して…。」
「逃げたの…卑怯ね」
「ほんとに。でも、母はそれにも傷つきます。親友の家族を壊したのも、私の友人を傷つけたのも自分のせいだ、と…。
次第に笑顔が減り、家から出なくなりました。鬱だったんです」
 なんてこと…。
 その母親に言ってあげたかった。周りの奴らの名前も、笑った奴らも全部ぶちまけなさい。あなたも自由に逃げなさい。…と。だが、「母親」という人は動けないのだろうと思う。
 自分は母親になれなかったから、こんなことは言える立場ではないだろうが、たぶん、その母親は洋子たち、家族の生活を優先したのだろう。
 自分のせいで、引っ越さなければならない環境になったり、友人たちとぎこちなくなったりするかもしれない。変な噂を立てられるかもしれない…。子供まで、いじめに合ってしまうかもしれない…。と。
「一人で抱えちゃったのね…。きっと、あなたたちに心配かけたくなかったのよ…。ああ、でも悔しい。その周りにいた人間が一番悪いわよ」
「母が自殺したと聞いて、その人たちは慌てました。あんな人離れれば良かったのよ、少しからかっただけなのに、お母さん真面目だから。ねぇ、私たちは関係ないでしょ?…。陰でずっと笑ってたくせに、母親が悪いって!本当に殺してやろうかと思いました!」
 マキヨは、洋子を強く抱きしめた。それは、自分自身を抱きしめているかのように、マキヨの心を温かくし、強くした。
 ああ、守ろう、大丈夫私がいるよ…もう、大丈夫…。
「恨まなくていいよ…偉かったね、洋子ちゃんもお母さんも偉かったね。強いよ、相手を思って笑ったなんて強いよ。素晴らしいお母さんだね」
「…なのに、なのに私言っちゃったんです。」
 わぁ、と洋子は、また泣き出した。
「なんでそんなことするの?何で怒らないの?友達に見られて恥ずかしい、ちゃんとしてよ、ずっと家にいるからいけなんだよ、社会を見なよって…」
 なるほど…。高校生くらい、同性の母親に対して同じ女性同士のイライラが募るころだ。
 マキヨは自身の経験上思っている。
 働かない父親に苛つきながらも、そこから離れずにいる母親がもどかしかった。自分で稼いでこんな父親捨ててしまえばいいのに、と。
「そのせいで…母は…亡くなったのではないかと思っていて。でも、自分の子供たちには言えなくて、心配かけたくないし、私の過去で悩ませたくないし…。」
 …そういうことか。
 マキヨは、理由は良くわからないが、妙に納得した。腑に落ちた…。という表現が一番合っているかもしれない。
 このタイミングで、この人に出会った、それはきっと意味があるのだろう。
 抱きしめてもらいたかっただろうな…。洋子を見て思っている。母親に謝りたかったのだろう…。自分もそうだったから…。
「私がもっと話を聞けば良かったのに、友達がすごいって言ってたよって、教えてあげれば良かった。悪いのは向こうだよ、お母さんじゃないって、寄り添えば良かったと…」
「そうね、でも、洋子ちゃんのせいじゃない。自分を責めなくていい。お母さんは心ない人に心を壊されたの。きっと、洋子ちゃんと同じように、もっと広い世界を見れば良かった、って思ってるよ。悔しかった、しんどかった、もっと話せば良かったなって。そう…だから私に会ったんだよ」
「…え?」
「私も、あなたも過去に縛られてきた人。話してみなさいってお母さまが導いてくれたのよ。そう、きっと分かり合えるってね。さっき、やっつけるって言ったじゃない?ああ、あなたに会えて良かったわぁ。そうよ、やっつけましょう。」
 マキヨは、拳を作って洋子に見せる。
なぜだか、身体の奥深くから、熱い思いがこみ上げてくるようだ。
 なんだ…?これは。
「自分の中の、黒いモヤモヤ、やっつけよう。本当の幸せ、見つけましょう!」
 気がつくと、口から飛び出していた。いつもなら恥ずかしく思えるような言葉…。でも、不思議とそれができる気がして疑わなかった。
「…はい。」
 目を丸くしていた洋子は、マキヨの熱量につられて、なんだか力が湧いてくる。下腹のあたりが温かくなり、ふぅ〜、っと、長い息を吐いた。
 身体の力が抜けていく。こんな風に穏やかな気持ちは久しぶりだ。
 ふと、母親の顔が浮かんだ。いつもなら俯いてつらそうな母の顔。でも、今は優しい顔で…。笑顔で…。
 ああ、そうだ。お母さんって、こうやって笑ってたな…。
 涙は増々あふれたが、不思議なほど苦しくない。なんなら、爽やかに感じるほどだ。
「マキヨさんすごい…。私の方が力もらいました。ありがとうございます。」
「私もよ。お腹の底から力湧いてくるの。やりましょ、洋子ちゃん。わたしたちはできるわ」
 と、マキヨは力拳を顔の前で作り、力説する。
「ふふ、なんか政治家みたい…。あ、ごめんなさい。」
「あら、うふふ…そうね。あらでも、今なんとも思わなかったわ。」
 洋子の政治という言葉を聞いても、何の感情もわかなかった。
 いつもなら、政治=直正、喜美代…と連想と後悔と妄想がぐるぐると始まるのに…。
 マキヨは驚いた。
「こんな風に、気持ちが落ち着くのは久しぶりよ。よし、次のダンスが終わったらきみちゃんにはついて行かない。で、もう会うのやめる」
「はい…私もダンス教室やめます。趣味が違ってもマキヨさんには会えますもんね」
「そうよ!お互い前に進もう!」

 そう言ったのに…。
 あの時。電車の中で洋子を一人にしてしまった。洋子は泣いていて、すみれ先生と言う人に連れられて行った。
 自分と同じように子供が出来なかった、という上品な婦人と若い女性と…。結局、いじめの加害者になってしまった。
 あんなに、洋子の母親のことで偉そうなことを言ったのに、喜美江とも離れられずにダンスに通っていて、洋子はそのままやめていって…。
 心底、自分が情けなかった。
 あの日、電車の中で若い女性と目が合った。その瞬間、今だと思った。これが最後のチャンスだと、必死でけしかけた。自分の暗いところから抜け出したい…、それだけだった。結果…とんでもなく大事になってしまったし、散々な思いもしたが…。
 だが…マキヨの心は清々しかった。
 どうでもいいや。直正の仕事も、喜美江のこれからも、どうでも良い。現状を聞いても、そうだろうね、だって、それくらいのことを自分がしてきたんだもの。くらいだ。
 やっと、手放すことができたのだ。
 心の黒いモヤモヤを、執着と依存を自分自身で壊した。 

「やっつけたよ」
 その一言を、洋子に送った。いつ見てくれるかもわからない、返事はこないかもしれない。でも、伝えたかった。だって、会えたんだもの。年齢の離れた娘のような人だけど。

 本当の友達に。

 ポッポー

 スマホの着信が鳴った。
 まさかとは思うけど…。
 ダイニングの上にある老眼鏡を慌てて手に取る。スマホの画面をスライドさせる指が、少し震えた…
 メッセージ、1件…。
「すごいです」
 可愛いキャラクターがガッツポーズをするスタンプだ。
 ポッポー
「私も連絡しようと思ってました!通じ合ってますね。その話、聞きました。誰からだと思いますか?あの時、私たちと一緒に降りた人です。」
 話を聞いた?一緒に降りた人…。どういうことだろうか?
 頭がグルグルと回っているが、うれしさに目に涙が溜まって、スマホの画面がにじんでしまう。
「なんと、マキヨさんと電車で喧嘩をした女性なんですよ。すごい!お話したいことがたくさんあります。今度、みんなでお茶しましょう」
 洋子のメッセージは、有名キャラクターが、飛び切りの笑顔で笑っているスタンプで終わった。
 うふふ…可愛いわね。
 返事が思いのほか早くて、ほっとしたのか、マキヨは笑ってしまう。でも、涙が止まらなかった。
 良かった…。返事が来て良かった…。
「ありがとう。ぜひ行かせてください」
 送った後、とんでもなく不安が襲った…。
 あの時、電車で喧嘩をした女性?変なことに巻き込んでしまって、ひどい言葉で罵ってしまったあの人。そんな人とつながった?どういうことだ?
 そうだ…言っていた。あなた、先々週も同じことをしましたよね…と。喜美江に悪いのはあなただ、と…。もしかして私がけしかけた理由も、分かってくれたのだろうか…。
 あの後、彼女はどうなったのだろうか…。というか、そんな人に会っても良いのだろうか…。あの時、一緒に降りた?隣にいた若い女性だったのか…。あの後、自分と洋子の話も聞いていた…。わかっていて、前の状況を見た上で…。

 もしかしてあの子は、わざと同じ時間の電車に乗ったのか?

 …ああ、すごいなぁ。

 マキヨは自分よりも若い人たちに感心をする。洋子と、あんずと、男の子たち…。
 あの時、俵の名前を聞いただけで、目を逸らせた人間が大勢いた。何もせず、何も言わず、ニヤニヤ笑ったり、睨んだりしているだけ。うるせえババア、小声でつぶやいた男も、キモい、と顔を歪ませて席を移動した人間もいたのに、あの人たちは真正面からぶつかってきた。
 お願い…助けて欲しいと必死にお願いした。きっと、彼女は気づいてくれていた…。
 あの子…だったのだ…。
 会うのは怖いけど、話をしてみたい。あの時のことを謝罪しよう。怒られるだろう、会ってくれないかもしれない、でも、どんなに時間がかかっても謝ろう。助けてくれた男性たちは誰だったのかも聞いてみたい。洋子に会いたい、すみれ先生にも…。
 ああ、すごい。こんな、巡りあわせがあるのだろうか…。

 マキヨの中で何かが動いているような感覚になった。なんなのかはわからないけど。
 あれ…なんだか、幸せ…。
 その時のことを考えて、あの時のことを反省して、心臓は鳴り、涙があふれた。こんなに興奮して大丈夫かしら…。でも、せっかく彼女たちと知り合えたのだ。こんなことがあるなんて思わなかった。自分はもうあと何年、生きていられるだろか…。だからこそ、会おう。チャンスを掴もう。気持ちがワクワクする方へ進もう…。
 夢に向かってただ駆け回っていた、若い自分が頭に浮かんだ。
 笑顔で、キラキラしている私…。
 あの時のように、希望を持っても良いだろうか。

 未来を思って、胸が弾んだ。

 生きていて、良かった…。

 心の底から、マキヨは思った。
 はっ、と思いついたように、自分で作った作品を、タンスから取り出してきて並べ始めた。
 もし、良かったら使ってもらえないかしら…。着物の模様の化粧ポーチやエコバッグ…。
 ピンクの花柄は、洋子に、紫の訪問着はすみれ色、先生にぴったり…。あの女性は、白いパーカーを着ていた…今どきの女の子、こんなの嫌がるかしら…。
 みんなの顔を想像して、作品を選ぶ。  
 やっぱりやめよう、でも手ぶらも良くないか、おいしいおやつの方が良いかしら…。
 何度も考えて、悩んで、やっぱりと思い直して、を繰り返す。次第に自分でも可笑しくなって、気づくと笑っていた。

 何を着て行こうかな…。

 遠足に行く前日のような、楽しいひと時だった。

        「生成り色2に続く」

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