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クーピーでいえば白(オレンジ2)

だが…

「あ、やばい、もう遅刻するから行くね!」
 と、涼平は家を出る。中学受験をし、市外の中学へ通っているため、朝が早いのだ。行ってらっしゃい、気をつけて、智子が答える。と、バタバタと大助が降りてきた。
「サコっち、辰也起きねぇわ。俺ももう準備するからぁ」
 わかった、ありがとう。智子が答える。と、祥太と亮太が朝ごはんを食べ始める。
「あ!なんだよ亮太、それ俺のジャン」
「イヤ、赤いからね。俺の色だ」
「ふざけんな、イチゴは赤いに決まってんじゃん!自分の色とか関係ねぇのに」
「べぇだ、もう食べちゃったもんね。今度青い食べ物あったらあげるわ」
「なんだよ青い食べ物なんかないだろ!てめ、ウインナよこせ!」
「やめろよ。栄養バランス崩れるだろ~」
「弁当の唐揚げ食ってやるからな!」
「はいはい。あ、ブルーベリーって青いんじゃない?」
「いや、あれは紫だろ?」
「ブルーだろ、ブルーベリーなんだから…」
 しょうもねぇ…。
 と、子供ながらに蓮は思う。でも、あの二人がいて良かったのだと、涼平が何かあるごとに言う。救われるのだと…。
「蓮もおいで、ご飯食べよう」
 と、大助が誘ってくれる。椅子に座ると、大きな泣き声が聞こえた。ラウルが起きたのだ。パタパタと智子が部屋へ向かう。と、洗面所から浩二が慌てた様子で出てきた。
「サコちゃん、おらんの?ラウんとこ?」
 上半身裸で、手には、オレンジのTシャツを持っている。
「ほうひ~ほうった?」
 大助が、口いっぱいにパンをほうばって聞く。浩二、どうした…。
「見てや、お気に入りのTシャツ!しみ、ついてんで」
 と、泣きそうな顔で訴える。浩二はおしゃれ番長。まだ小学生だけど、洋服にはこだわりがあるらしい。蓮は、目玉焼きを食べながら観察する。
 浩二が部屋を出た…。
「あ、俺もやべぇ、行ってくる!」
 学生服を着ながら大助がピョンピョンと、跳ねるように家を出て行く。祥太と亮太もバスに合わせて出て行った。
 蓮にバイバイと手を振って…。

 ヴォー…ン…。

 急に、モーター音が聞こえてきた。ハウスにある大型の冷蔵庫の音だ。気が付くと、広いリビングには蓮しかいなかった。
 ガチャガチャ、ワサワサとしていた部屋はシン、と静まり返った…。
 その瞬間、蓮の心臓が激しく鳴り出した…。
 は、はっ…うう…
 息の仕方がわからなくなる。口に入れたウインナーを、吐き出しそうだ。

 やだ…やだ…一人はいやだ…。

 真っ暗な部屋、誰もいない。

 ヴォン…ガタガタ
 小さな冷蔵庫が音を立てた
 ひ、ひぃ…

 かすかな物音にびくびくする。  

 助けて…怖い…ママ…。

 体は震えだし、無意識に牛乳パックを手で握りつぶしていた。白くテーブルが汚れる…。
 あ…やばい。
 蓮の目が強張り始める。
 何してんだ!てめぇ、もう二度と飯食わせねぇからな!
 のっぺらぼうの男が蓮を殴る。ごめんなさい、赦してください…。
 床にひれ伏した蓮の頭を、男は足で踏んだ。
 なめんなよ。
 男は蓮を持ち上げると床にたたきつける。馬乗りになり、また殴った。頬が腫れる、鼻血が出る、それでも殴る、何度も、何度も…
 ごめんなさい…もうしません。許してください…。

 お、えっ…うっ…。
 蓮は胃の中の物を全部吐き出してしまった。大粒の涙がこぼれてくる。
「イヤだ…ごめんなさい…。もうしません…。」
 泣きながら叫んでいた。見えない物に怯え、逃げるように椅子から転げ落ち、床にうずくまった。身体の震えは止まらない。

 ママ…助けて、ママ!。

「〇△※×…」
 誰かの声がした。
 パニックになっている蓮には、何を言っているのかわからない。が、
 男、だ…。
「ごめんなさい…許してください!」
 言うことを聞かないとまた殴られる。でも、言っている言葉を聞き取れるような状況ではない。蓮は、必死で逃げて隠れた。うずくまりながら、机の下、椅子の足の間…もう隠れるところなどないのだが、自分の姿をどうにかして消したかった。
 聞いたことのない声、また、知らない男が来た…。
 今いる場所と、以前自分がいた環境との境が無くなっている。母親といたあの家にやってくる男たちがまた…。
 う、うう…。
 ガタガタと震えている蓮の背中を、何かが包んだ。

「ひぃやぁぁっ」
「…だ…ん」
 声の主が言う。
 やだやだ…
 必死で振り払おうとするが、しっかりとつかまれていて離れてくれない。そして、なんだか温かい…。
「…おち…ないよ、れん」
 …あれ?

 なんだか…怖く、ない…。

「蓮!大丈夫だ…もう、大丈夫」
 その声の主はゆっくりと、でも、はっきりと言った。
「よし、息できるか?そのままでいい。ゆっくり息を吐いてごらん」
 聞いたことのない、若い人の声だ…。
 いきを…はく…?
 だが、その声と背中の温もりは、蓮の心を少し落ち着かせた。
 息を…
 ふ…ふぅ…。
 吐瀉したせいで、口の中が不快だ。それでも、必死で息を吐いた。
「うん…良く出来た。じゃあ、今度はゆっくり吸ってみよう…」
 す…すぅ…。
 引きつりながらも、息を吸おうともがいたが、横隔膜がうまく動かず、ひくひく、とみぞおちが動く程度だ。
「ヒッ、ヒ…ウ…」
「できてるよ、大丈夫だ…」
 その人物は、温かい手で背中を優しくさすってくれる。

 できてる…。うん‥大丈夫…。
 す、すぅ…。
「そう、上手だ、そのままゆっくり…」
 次第に、蓮の体の機能が正常に戻ってくる。
 吸う…吐く…息が、できた…。
 激しく動いていた心臓が、徐々に静かになっていく。
 蓮は、おそるおそる、頭を持ちあげた。
 まぶしっ…。
 薄汚かった暗い部屋は、明るい日差しが入る、広いリビング…。
 ここは…そうだ、今、自分のいる場所…。あの部屋じゃないんだ…。明るくて…暖かい。
「そうだよ。蓮は今、一人じゃない。ここは安全だ。怖がらなくていい」
 そう言う声の主の、蓮を抱きしめる腕は太くはないが、しっかりと筋肉のついた男性の手…。優しい声…。
 落ち着いた蓮は、状況を観察した。
 自分の体は、吐瀉した汚物にまみれていて、きれいではない。あ…。今までならそのまま投げ飛ばされている。汚ねぇな!と…。
「…ごめん、なさい」
 小さく蓮が声を絞り出した。また、少し心臓が早く動き出す…。
「ん、何?」
「き、汚くて…ごめんなさい…」
「そんなこと…気にしなくていい。苦しかったな?良く頑張った」
 と、その人物は蓮の頭を、シャカシャカと、なでた。

 ふわ…ん…。

 あれ?
 蓮は、身体の力が少し抜けた。
 こんな感覚は…
「…初めて…」
「何?」
「頭、なでてもらったの、初めて」
「…そうか」
 少し間を空けて、自分の体を抱いている腕の力が、ぎゅっと強くなった。

 パタパタ、ドタドタ…何やらにぎやかな声も聞こえてくる。智子や浩二が部屋へ入ってきて、リビングの状況に目を丸くした。
「タツ…」
 智子が言った。
「ごめん…蓮、一人にしちゃった…」
 と、いつもニコニコしている寮母の様子は、どこか焦っているように蓮には見える。チッ。背中から小さく音がした。…舌打ちのようだ。
 タツ…辰也、という人だ。
 蓮はまたドキドキする。会ったこともない人なのに…。
 しばらくの沈黙が続いた。智子は落ち着かない様子で状況を見渡し、
「あ、あの…」
 と、何か言おうと息を吸った。
「蓮、着替えようか。風呂に行こう」
 それを遮るように、少し大きめの声を出し、辰也が言った。
「行くぞぉ」
 と、辰也は蓮を抱き上げた。「フゥッ」とふざけた声を出しながら、ゆらゆらと智子たちの前を通り過ぎる。
「あ、私が…」
「いいです!」
 手を出そうとする智子を睨みつけて、辰也は叫んだ。
「大丈夫です。俺が、やります。忙しいでしょう?」
 丁寧だが、蓮にはその言い方は怖く聞こえた。それ以上近づくな、さわる な…そう続きが聞こえそうだ。最後は唇の端をあげて、ふっ、と鼻で笑った。蓮は、立ち尽くす3人を見て、少し…気の毒に思っていた。

「ごっは…ん~」
 小さなラウルが、キョトンとした顔で訴えた。
「あ、ごめ…そうだね。…ちょっと待って」
「ラウ、なに飲む?一緒にみようや」
 というと、浩二はラウルの手を引いて、キッチンへ向かった。
「…ありゃあ」
 智子はリビングの状況を見て、おどけたように笑う。いや、そのつもりだだろう。浩二はちらっ、と智子の様子を伺っていた。
「さあ、片づけないとね!モップ…取ってくる」
 浩二は、ふう、と息を吐く。
「なぁ、ラウ。ママを泣かしたらあかんで。でもな、どうしようもない時もあんねん。そういう時は、俺の出番や。大丈夫やで、俺がみんなを笑かすからな」
 言いながら浩二は、ラウルへ笑顔を向けた。
 
「なあ、蓮。散歩行こうか」
 シャワーを浴びた蓮の髪の毛を、バスタオルで拭きながら辰也は言った。
「がっ…こうは?」
 おそるおそる聞いてみる。さっき、浩二も出て行ったし、智子はラウルを連れて病院へ行く予定だ。蓮は、明人やボランティアの人たちに頼む、と、昨晩、智子が誰かに言っていたのを覚えている。
「行かない。今日はお休み~」
 と、辰也は歌うように言ってバスタオルを外すと、少し低いところから蓮を見上げる形になった。細身の顔は色白で、母親の恋人という男たちの中にはいなかった感じの人…。
 蓮はじっと見て観察した。
 辰也も蓮の顔を眺めた。
 自分を真っすぐ見つめている蓮の眼は、相手の動向を読み取ろうと真剣だ。何もかも見透かされるような…。キレイな目…。
 きっと…彼も、ここまでそうやって生きてきたのだろう。
「初めて、目が合ったかもな」
 と、辰也は、ニッと、口角を上げて笑った。
 …笑った。
 蒸気が残る洗面所の優しい温かさ、ほんのりオレンジ色をした照明、シャワーを浴びた爽やかさ…。 
 なんか、気持ちいいな…。
 ふわん、と自分の周りにある空間が明るくなった、ような気がした。
「うん…」
 
 その時の空気感を忘れることはないだろうと蓮は思う。
 ほとんど初めて会ったし、どんな人かもわからないけど、この人は、一緒にいても良いんだ。そう思った瞬間の心地良さと、心の底からの安心感…。初めての感覚だった。
 蓮が着替えている間に、辰也は汚れた服を手洗いし、洗濯機へ放り込む。自身も着替えて二人で手を繋いで、玄関へ向かった。
 ガチャ、ガチャ…。
 突然、玄関のカギが揺れた…。
 蓮の手に力が入る。すると、もう一方の手で、ポンポン、辰也が優しく蓮の手を叩いた。
 それだけなのに、なんだか蓮の気持ちは和らいだ。
「おう辰也、おはよう。あれ、学校行くの?」
 ドアを開けて入ってきたのは、柏崎明人だ。蓮を見るためにやってきたのだろう。市の職員で、この建物を建てた班目病院の息子。ここの職員でもあり、そして、智子の夫だ。
 眼鏡の奥の目を素早く動かして。蓮の姿を見つけると、一瞬、眉根を寄せる。
「蓮君…か。おはよう。ここに来る前に何度か会ったね?どう、少しは慣れた?」
 怖い…。
 蓮は、思わず辰也の足に隠れてしまった。
「ははは、ごめんね。怖がらないで良いよ。…どこ行くの?」
「ちょっと…散歩に行ってきます」
 辰也の声が明らかに低くなっていて、蓮は辰也を見上げた。
「サコちゃんは知ってる?俺が預かって欲しいって言われていたんだけど」
「今、明人さんへ報告しました。少し、僕も気分転換したいんで、一人じゃつまらないから、蓮に付き合ってもらうだけです。」
 と、軽く会釈をする。
 さっきと違う…。
 蓮は空気感を感じ取るのが得意だ。
「…そう、わかった、気を付けてよ。」
 と、明人は少し笑う
「何かあったらサコちゃんに怒られるからさ、俺がね」
「…わかってます。馬鹿じゃないんで」
「もちろん、知ってるよ。蓮、何かあったら教えてね。僕はここの職員だから」
 と、蓮に笑って見せた。が、何故か蓮は頷くことしかできなかった。怖さの方が強いのだ。
「よし、じゃあ出発だ!」
 辰也はわざと、明るい声を出した。
 辰也と明人の間にある空気感を、蓮は子供ながらに察している。それがどういう物かはわからないが、なんとなく、何も聞いてはいけないと思うような空気…。蓮はそういう物を汲み取ることが出来る。と、言うより育ってきた環境が蓮をそうさせた。
 母親の顔色、知らない男の動向、生きるためにはどうしたら良いのか…本能で感じ取り、自分がどうふるまえば良いのかを、自然と身に着けてきたのだろう。

「あっちに行って見ようか…」
 外に出て、散歩する道を選ぶ時、辰也が言った。蓮に、というよりは自分の中でのようだ。
 施設は、田舎の高台にあった。竹林と畑に囲まれ、庭からは遠く海が見える。子供の蓮は、庭から見える海が不思議だった。ものすごく遠いところにあるもの、と思っていたからだ。サーファーが良く来る外海で、最近は移住者も増えてきたらしく、最近は町全体が観光業に力を入れ、イメージアップに努めだした。街や田畑を横切るように有料道路を通す予定もあり、一部の土地の売却を巡って、地域住民と建設業者などが話し合いを続けているらしい。施設から海へ向かう道も、近年の開発により片田舎の道路は広げられ整備され始めた。新しい住民たちによる、美容院やパン屋などもポツポツと並び始め、きれいな道と併せて変容している。 
 
 その途中に、【やまね屋】はあった。
 外観はこげ茶色のシンプルな建物、2台分の整備された駐車場もあり、一見すると倉庫や海外でいうガレージのようだ。店の入り口横に、ひっそりと掲げられている看板は古く歴史があるようだが、外観の雰囲気と、周囲の景色とうまく溶け合っていて、うまいこと洒落て見える。入り口は広い自動ドア、その床のどこにも、段差がなかった。
「こんちわぁ」
 入り口を入ると、明るくて清潔だ。広く通路が取られた店内は、壁に沿って商品が並び、真ん中の棚は低く、総菜や手作りのパンなどが並ぶ。
 その奥のレジ台の前に並ぶ、藤の籠に入った野菜は「ハナさんの有機野菜」と書かれた、黒板アートの看板が立っていた。
 わぁ…。
 蓮は、店の中の雰囲気を見ている。壁や床は木で作られ、あちこちに海や、花、犬の写真などが飾られている。
 子供向けのおもちゃ、見たことのない飲み物やお菓子、日焼け止めや旅行に使うような雑貨もある…。
 キャラクターの菓子パンや、おいしそうな総菜の中に、きれいな花の…。
 これ…なんだろう?まつり、ずし…。

「あれぇ…ずいぶん珍しい人が来たじゃん」
 自分たちに言っているだろうと思われる、驚いたような声がした。
 二人が振り返るとそこには、車いすに乗った小さな老婆の姿があった。
 …店主のようだ。丸眼鏡をかけ、身体も顔もふくよか。明るい色柄のワンピースを着て、目を丸くしていたが、頬はつやつやと光っていて、健康そうに見える。すぃっ、と手慣れた様子で車いすを操作する。
「おばちゃん…元気だった?」
 辰也の、ほっとしたような声がした。少なくとも蓮にはそう聞こえる。
「うん~。足が悪いけど元気だよぉ」
 と、老婆はうれしそうに、辰也の二の腕や肩を、ペタペタと何度も叩いて確認する。
「大きくなった。どこのお兄さんがきただと思ったよ。かっこいいねぇ」
 というと、顔をくしゃくしゃにして笑った。
 やばい…。
 辰也は、自分の中の感情に戸惑っている。蓮に気づかれないように、天井を見上げながら、すう、と大きく息を吸った。
「あれ…みない子も居るねぇ」
 と、老婆は眼鏡を下げて、辰也の足元に隠れるようにする蓮を見た。
 蓮は思わず構えて一歩引く…が、辰也がポンポン、また優しく手を叩いた。…大丈夫そうだ。ほっと息を吐く。
「うん、最近来た。蓮、だ。」
 と、辰也は、蓮の背中をそっと押した。
「まだ、5歳だよ」
「そっかい、可愛いねぇ。おばあちゃんはハナです」
 と、ハナはペコン、と頭を下げた。うん…蓮もつられて頭を下げる。
「弟がまた一人増えたか。サコちゃんはすごいねぇ」
 と、ハナがフォッフォっと笑うと、辰也は、ふっと小さく笑った。
「蓮くん、何が好き?お店の中見ようか、なんでもあるよぉ」
 と、ハナがくしゃくしゃな笑顔で蓮を手招きする。少し緊張していた蓮だが、うん、と、ハナの後について行った。

 辰也は店の中を見回し、壁に飾ってある写真を眺める。
 海は、ハウスからも見える海のようだ。サーファーが波乗りをしている瞬間。あの黄色い花は、山の入り口に咲いていたっけ…。
 そして…。
 金色の毛並みのゴールデンリトリーバーが笑っている写真…。後ろに映り込むのは、昔のやまね屋だ。
 あの、オアシスのような場所…。
 ここは、辰也が子供の頃より前からある、生活のあれこれが揃う田舎のコンビニ、という「よろずや」だ。子供の頃、施設と学校しか居場所のなかった自分たちの憩いの場だった。
 辰也たちの色々がちりばめられた場所…。見た目や建物自体は変わったが、店主のハナは変わらずいて、自分を覚えていてくれて。
 辰也は懐かしさと寂しさの入り交ざったような感情が込み上げてきた…。
 バカバカしい、何考えてんだ俺。やっぱり来るんじゃなかった…。
 自分のしていることが、急にくだらなく思えて、辰也は腹が立った。
「わぁ、上手にできたねぇ」
 ハナのうれしそうな声がした。蓮が店の入り口から、外に向かってシャボン玉を吹いているようだ。
 蓮は、ハナの大袈裟な喜び方に少し戸惑いながらも、顔を赤くして嬉しそうにした。
 ふぅ~…
 もう一度、蓮が吹いた。
 しゅるる、と泡の塊がストローから飛び出した。それは風に乗り、ポン、ポンと一つずつ好きな方へ飛んで分かれて行った。
 上へ飛んでいくもの、風の勢いに乗り遠くへ行くもの、少し飛んでハナのそばへ寄ってくるもの、蓮の顔の前をふわふわしてるだけのもの…。
 辰也はシャボン玉を目で追った。ひときわ高く上がっていく。一つを…。

 ぴゅるりーん…。

 晴れた空にトンビが舞っていた。あんな風に飛んでいるのを見るのは、久しぶりだ…。
「蓮君は、なんであそこに来たぁ?」
 のんびりとしたハナの声が下から聞こえた。いつの間にか隣に来ていて驚いて、自分より小さいハナが、少し不思議だ。
 そりゃそうか…。
 車いすに乗ってるし、しかも、ここに来るのは久しぶりだ。
 もう…ずいぶん来ていなかった。
「うん…。母親のネグレクトと、同居人の暴力。で、放置されて死にかけてたって」
 辰也は、さらりと言う。あの施設に来た子供たちは、何か抱えているのは当たり前で、そんな話はもう、慣れてしまっている。
「…そっかい。どうしようもないねぇ、大人が子供のままだからねぇ…」
 ハナは、目を細めて蓮を見る。と、蓮がくるっと、ふり向いて笑った。
「すごいねぇ、蓮くん、大きいシャボン玉できたねぇ」
 ハナは、目を大きくして驚いてみせた。
「おお!うまいな、蓮。」
 同じように辰也も、大袈裟に喜んで見せた。
 うん。
 うれしそうに頷いて、蓮はまた吹き始める。
「良かったねぇ、蓮君は…」
 ハナが言う。

 え?良かった…?

 辰也は、腹のあたりがむかついてくる。このところ、その反応が自分でも嫌になってくるほど素早い。
 誰かの何気ない言葉、なんでもない仕草、誰かが楽しそうにいてるだけでも…。年齢的な、時期的な物だろう、とは思うが、そのイライラしている自分に対してもイライラする。
 抑えろ…、ハナは悪くない。所詮他人だ、人の子供のことなんてわかるはずがない。ただの何気ない会話なだけだ。
 俺たちのことなんて、わかるわけがないんだ…。

「違うよ、タッちゃん。あそこにいる子は、みんなラッキーなんだよ」

 らっきー?ラッキーって、あのラッキー?
 辰也は余計にイライラし始める。
 なんだよ、それ、どこがラッキー?違うよ、ってなにが?
 え…違うよ…?
「い~ま何言ってんだ、このババアって思ったべよぉ。俺たちのことなんて、わかるわけないって、なぁ?」
 と、言いながらハナはフォッフォッ、と笑う。
 うっ…、やべぇ…そんなひどい風には思ってないけど…。
 いや、さすがだ…。
 辰也の顔がどんどん赤くなって、ハナは余計に笑った。
「わかんねぇよぉ。人の気持ちなんてね、わかるわけないだ。わかった気でいるだよ。きっと、こんな時、自分だったらどう思うかな~って、相手の気持ちに近づこうとしてるけどねぇ」
 と、何気なく、写真に目をやった。辰也も自然にそちらを向く。やまね屋の映った犬の写真…。
 ちくわ…。笑顔のゴールデンリトリーバーの名前を心の中で呼んだ。辰也は、胸に、チクン、と何かに刺されたような痛さを感じる。

 なんだ…?

「きっとね、蓮くんはしんどかったさ、そりゃそうだ。そんなことする馬鹿な親なんか、おばあちゃんだって、ぶん殴ってやりてぇだよ…。」
 と、蓮の方へ顎を向ける。
「だけどよ、ホレ、見てごらん」
 自分で飛ばしたシャボン玉を必死で追いかけながら、蓮はそれを手でパチン、パチンと叩いて遊んでいる。 
 その顔は…必死で、目をキラキラさせて…そして、とびっきりの笑顔だ。
 あんな風に、笑う子なんだなぁ…。
 蓮が来てから、さっきの出来事があるまで、向き合ってこなかった。
 また、増えたのかよとか、面倒見てやらねぇとか、金ねぇだろとか…。イライラしてるだけで…。なんで俺、こんなにイライラしてんだろ…。
「かわいいねぇ…」
 ハナのその一言で、今度は、泣き出しそうだった。
 なんなんだ!俺!
「泣きたいときは泣いて良いだよ、タッちゃん。そんなの当たり前だよ。だから、今、ここに来たんだよ」
 と、ハナが言う。
「…タッちゃんがいて、サコちゃんや施設の人がいてよ、そいで、おばあちゃんもいてさ」
 と、ハナは自分の胸を手で抑える。
「今、ああして蓮くんは笑ってんだ。良かっただよ」
 蓮の様子を眺めていた。ただ、それだけなのに。
 辰也は、自分の心が、不思議なほど落ち着いていることに気がついた。

 蓮がシャボン玉をやめて、店に入ってきた。はしゃいだせいか、息を切らして顔を赤くしている。
「わぁ、暑かったねぇ、蓮くん。おいでジュースあるよ」
「あ、おばちゃん、金…」
「いいだよ、いいだよ。タッちゃんも飲みな。おばあちゃんのおごりだよ」
 と、手首をパタパタと顔の前で左右に振って、ハナは笑う。
「おばあちゃんには、それぐらいしかできないからね。蓮くん、いつでもおいで。おばあちゃんと、今度は何して遊ぶか考えておいてねぇ」
 うん!
 蓮は大きく頷いて、オレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。
「おお、すごいや。たくさん遊んだから、のど乾いたねぇ。」
「蓮は、オレンジジュースが好きなのか」
「初めて」
「ん…初めて?オレンジジュース」
「うん。シャボン玉もジュースも。」
「そうか…。ハウスでは何飲んでも、何しても良いよ、知らなかった?」
「知ってる…。でも、ダメだって」
「誰が?」
「ママ」
「…ママ?蓮のママ?」
「ママが良いよって言うまで、あの家で何もしちゃダメ、って言われた。」
「そっかい…ママは厳しいだなぁ」
 ハナは、眉根を下げて、ふん、と鼻息を吐く。
「今…どうして飲んだの?」
「あのお家じゃ、ないから…」
 蓮は、次第に声が小さくなって、顔も強張りだした。
「ご、めんなさい…」
「違うよ、蓮…」
 辰也は、少し笑って首を振る。
「うん、蓮はラッキーだな」
「…ラッキー?」
 と、蓮は首をかしげた。汗をかいた顔は、まだ赤く上気している。
「うん。うちに来て良かった。あそこのママは、サコさんだろ?」
「…うん。でも、俺のママじゃない」
「そうだね、でも蓮のママ、今、遠くにいて会えないじゃん?心配だから、その間、蓮のママがサコさんにお願いしてるんだよ。」
「お願いしてる?」
「うん。蓮のことをよろしくお願いしますって。蓮が、元気に過ごせるように守ってくださいってお願いしたから、サコさんがママの代わりに守ってる」
 ハナは、辰也の様子を眺めた。肌は白くて、身体の線は細い…。だが、そこから出ている空気感は寛容で暖かく…。
 立派になっただなぁ…。
 小さく頷きながら、今度は、ほう、と優しく息を吐いた。
「…ママと約束した」
「何を?」
「忘れんじゃねぇよって、お前の親は私だって。他のヤツの言うこと聞いちゃダメだって」
「…はっ、どうしようもねぇね…」
 ハナが思わず毒づいた。
「うん、忘れなくていいよ。」
 と、辰也は少し怒ったようなハナを手で制し、二人に微笑んだ。
「いつか、ママと会える時までに、蓮が元気で、笑えるようになればいいんだ。」
 ハナは、辰也を見つめ、ゆっくりと目を閉じると、うんうん、と小さく頷いた。
「…良いの?」
 蓮が上目遣いに聞いた。
「何が?」
「笑って、良いの?」
「いいよ、当たり前だよ」
「でも…ママが怒るよ」
「今、ママはここにいないよ。みんなも言いつけたりしない」
「そぅだよ、みんな優しい人だもん。ねぇ」
「だから蓮は笑って良いよ。どうしたら蓮は笑うのかな?」
 ん~…。
 蓮は考え込む。
 そんなのわかんない…。蓮が元気で…さっき辰也が言ってた。
「元気になる?」
「おう、そうだ。じゃあ、元気になるにはどうしたら良いかな?」
「…ご飯…食べる?」
「うん、何が好きだ?何食べたい?」
 ん…っと…。あ…
「あの…お花のお寿司」
 と、蓮は総菜の一角を指差した。それは、バラの模様の祭り寿司だ。
 辰也の胸がツキン、と痛んだ。自分でもなぜなのかわからないが、鼻の奥がツンとする…。
「そっか…。買って帰ろう。じゃあ、食べたらどうする?」
「お外で遊ぶ」
「うん、すごいな、良くわかってる。何しようか?」
 辰也の質問に、蓮はまた、考える…。そして、人差し指を壁へ向けた。
「あれ、やりたい」
 という蓮の指先には、サーファーが映る写真があった。
「海…行きたい」
「そっかい…。良いねぇ」
 写真を見上げて、ハナは目を細めた。
「よし、じゃあ、今日は無理だけど、今度みんなで行こう!…もしかして、始めてかな?」
「うん!見るのも初めて!」
「そうか、良かったなぁ蓮。これから初めてのことが、いっぱいできるぞ~」
 と、辰也は蓮の頭をくしゃくしゃと撫でた。黒い素直に伸びる髪の毛が、汗と共に指に絡んだ。蓮は、照れくさそうに、でも、うれしそうな顔になった。
「2回…目」
「ん?」
「頭なでてもらったの、2回目」
 と、言うと、蓮は、指を2本ててピースサインをする。そして、にぃっ、と口角をあげて微笑んだ。それは、どこかぎこちなくて…。
でも、一生懸命で…。
「うん…。蓮、俺もラッキーだ」
 ダメだ…耐えろ…そう思うが、目に涙が溜まるのが抑えられない。
「俺…蓮に会えて良かったなぁ」
 言いながら、辰也は、その場で泣き崩れた。

 それから、蓮は辰也と過ごす時間が増えた。智子はラウルの世話と、他の兄弟の食事や学校行事に追われていたし、家事や施設の経営などにも手を抜かなかった。
 もちろん、蓮とも分け隔てなく接し、嫌な思いはしていないが。
 辰也は、高校へ行っていなかった。入学はしたものの、通うにも遠かったし、部活などもできない環境で、友人関係で悩んでいたこともあったらしい。でも、兄弟も智子たちも、辰也を攻めることはなかった。
 ある時から、涼平が家にいながらインターネットを使って授業に参加する通信高校をみつけ、辰也へ薦めた。
「こういう方法もあるってこと。辰也はパソコンとかネットとか、機械系が得意なんだから問題ないでしょ?できることがあるなら、利用するべきだよ」と。
 一見、クールな言い方に聞こえるが、辰也のことを考えて探してくれたことは事実で。実は、優しいんだ…。と、蓮は思う。
「良いなぁ辰。それでいいんなら俺たちもそうしてくれればいいじゃんね?」と、祥太。
「電車乗って通うの結構しんどいしさぁ」
「そうだね。でも、それはどこの家でも環境が整っているという前提じゃないか?」と、亮太「パソコン何台買うんだよ」
「う~ん。でも、その内そんな時代が来るんじゃん?」
 と、言うのは大助。
「だって、世界に繋がってるわけじゃん?勉強とかよりもいろんな物知れるぜ?」
「お?どうした大助。そんなこと考えてんの?」
 と、光。今日はお泊りの日らしい。
「パソコンなんかいじれるの~?」
「おいおい、馬鹿にしてもらっちゃぁ困るぜ。アニメの世界は広いのよ。今、テレビで見るより断然ネット!いつでも、何回でも、誰でも見れちゃうんだよ?すごくね?」
「結構、危ないって言うけどね。境界線がない分、変な物も見れちゃうんだよ。良くない映像とか…子供が見ちゃいけないヤツもね」
 と、涼平は真面目だ。
「あ、ダイ、そっち系見てんな?」
 と、祥太が大助をからかいだす。
「エロ~い」
「ふざけんなよ、俺は一途なの。ずっと前から、ゆさぴょん一筋」
「いや、昔のアニメだから。今、もっとすげぇ感じのヤツ、いっぱいあるだろう」
「おいおい、ってことは亮太も見てるな?別に、アニメじゃなくても良いじゃん」
「…バレバレじゃんか。光は本物見てんな。お前は良いよな、家で自由に見れるしぃ」
「ばぁか、親父のパスワードかかってんの。見たらすぐバレるぜ。」
「俺は、これ見ても良いかって、サコっちに聞いてから見るけど」
 と、大助「でも、消せばわかんないじゃん。」
「履歴が残るよ。セキュリティ上何にアクセスしたかなんて、いくらでも調べれられる」
 と、亮太。「変なウィルスとか拾ったら大変だよ。あのパソコンには、ここのデータが全部入ってるんだから。気をつけろよ」
「確かに。それにサコさんだけじゃなくて、明人さんも見てるからね。うかつなこと出来ないよ」
 と、真剣な様子で涼平が言った。
 蓮は、何か、引っ掛かる…。

「えろぉい」
 という子供の声がして、全員が振り向いた。そこにはラウルが床に座って、おもちゃの車を走らせていた。
「エロォイ」
 と、可愛い声でもう一度言う。さっき、祥太が言った「エロ~い」を真似しているのだ。
「わぁ、ラウはモノマネがうまいねぇ」
 隣で遊んでた蓮が、手を叩いてラウルの様子を見てほめる。すごいよね、と兄弟へ向くと、全員が目を丸くして二人を見ていた。
 智子は2階へ、浩二は今、辰也と風呂へ入っている。 
 蓮は、兄たちに注目されて慌てた。やばい、怒られるかも…。
「…あ、ごめんなさい」
「いや、違う。ごめんね蓮。僕たちが悪い」と、涼平。
「ああ、そうだ。ごめん。迂闊なことは、ここでも出来ないよ」と、光が手刀を切る。
「やっべ、辰がいたら怒られるよぉ。お前ら何してんだって」と、祥太。
「お前が言うからだぞ。変な言葉覚えるじゃん。」と、大助が、祥太へ怒る。
「やめろ。喧嘩なんかしたら余計ダメだ。蓮、大丈夫だ。怒ってない」と、亮太。
「えろぃい」
 ラウルは、覚えた言葉が面白くなって大声で言い出した。
「やべぇ!ラウ~ほら、車だよ、車、ブーブ」
 祥太が慌ててごまかそうとする。ラウはその様子をキョトンとして見た。
「エロ、エロ…えら、えらぁいだ!ラウ、ほら、えらぁい。」
 と、亮太が言い出した。
「そうだ、偉いねぇ、ラウはなんでもすぐ覚えて偉い!」と、光…。
「ほんと!すごいぞ、偉いなラウ。賢い、ラウル!」
 と、涼平も参戦し、大騒ぎだ。
「そう!えらいぃ♪偉いぞぉ♬ラウールわぁ」
 と、ついに大助が、即興で歌を歌いだした。
 なんだこれ…。蓮は、みんなの様子を観察する。
「そうだ、すごいぞラウールはぁ♪」
 祥太も続けて歌いだした。ラウルは、それに合わせて小さな身体を揺らし始める。
「よし、歌え!」と、光は笑いながら、身体を揺らしてはやし立てる。
「えら…ぶはは。えらいぞ~…わははははは」
 大助も祥太も、なんだか笑いだした。
「蓮、おいで」
 と、亮太が、蓮を自分の膝の上に乗せ、腕をつかんで指揮者のように振り出しすと、蓮もムズムズしてくる。涼平がラウルを抱き上げて、揺らしてあやすと、嬉しそう笑った。キャッ、キャ…
 えらい~、ラウルは~ 
 しょうもねえ、
 アハハ、キャハハ…。
 気がつくと、蓮もつられて笑っていた。
 変な歌と笑い声で、その場は包まれた。

 蓮が、元気で笑えるように…。

 兄弟たちに囲まれながら、辰也の言葉を思い出していた。
 ああ、こういうことなのかなぁ…。
 子供の蓮は、漠然と思った。

                  アプリコット1に続く

※お暇なら読んでね話…2

ここまで読んで下さりありがとうございます。
子供の頃、私にも【やまね屋】のようなオアシスがありました。
すごい田舎の、小さなお店。でも、食料品や文房具、たわしや洗剤などの生活用品、鍬などの農機具から駄菓子や子供のおもちゃ…。その他不思議な物も所狭しと並べられていて、ワクワクしたものです。ハナさんのような、にこにこ穏やかなおばちゃんがいつも迎えてくれました。
今はもう店はありませんが、今も、私の楽しい大事な心の居場所です。

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