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誠実さよりも救われたい

大学で保育学を専攻している。この大学で得た知識は確実に私、というより、子ども時代の私を救ってくれている。

子ども時代の私は、なにより母に褒めてもらいたい子どもだった。母は子どもを褒めないひとだったのだ。

「今日◯◯ができたんだよ」「〜〜だからでしょう」

直球じゃダメか。

「みんなできなかったのに私だけできたんだ」「へえ、まあ貴方は〜〜なところがあるし」

この言い方もだめ。

「今日ね、先生が私に...」「ふーん、」

いかに周りから自分が認められているかアピールをしてみるも、玉砕。いつも母は私の言葉をすり替えるか上の空だった。私は、いつだって、「そうなんだ。すごいね」と、たったそれだけの言葉が欲しかった。だから、褒められそうなことならどんな些細なことでも母に話した。だけど何を言ったってダメだった。中学生になって高校生になって、「まぁ褒めてもらえないだろうな」と心のどこかで分かっていても、話す癖はやめられなかった。自分で話し始めては、褒めてもらえないことに腹を立て、そして必ず落ち込んだ。今考えればやめられないのは当たり前だ。母親に求めているものは、他の誰かでは埋められないのだから。

保育学を学んだ今なら分かる。いつだって子どもは、一番身近な人、すなわち母親に「自分を無条件に受け止めてもらう」ことを期待している。受け止めてもらうことで、子どもは安心を得ようとする。つまりは褒めてもらうということは、「認めてほしい」という思いを受け止めてもらうことと同義なのである。

今朝、私は母に、またいつもの癖を繰り返した。「検定の自己採点したんだけど、理論が満点だったの。すごくない?」

すごくない?がポイントだ。ハードルを下げてみた。適当にオウム返しで「そうだね」と言ってくれさえすれば、母が話を聞いてなかろうと興味がなかろうと、それだけで私は満たされるのだ。さあ、言ってみろや。「へーすごい」なら120点満点だ。

「へえ。」

...久々に私は母に言い返した。「お母さんって、子どもを褒めないよね」「大学で勉強したけど褒められることで子どもは伸びるんだよ」「褒めるっていうか受け止めてもらいたいの」「母親に受け止めてもらえないと子どもは傷つくんだよ自分に興味がないんだって」「私褒めてもらったこと全然ないよね」

隣で聞いている父親が苦い顔をしている。言い合いが苦手な私の口から、言葉がどんどん溢れてきた。得た知識が、私の震える肩を力強く支えてくれているのがはっきりと分かった。

「だって、それがどのくらいすごいことなのか分からないもの!分からないことはすごいとは言えないし、それに、あんなに直球で「褒めて!」ってこられて褒めるのは恥ずかしいじゃん!」

母は半笑いで、まるで何かに言い訳をするように大きな声でまくし立てた。私は一瞬納得しかけて、そしてハッとした。

糞真面目か!?!!ていうかそれって結局自分の気持ち最優先ってことでしょ?子どもの気持ちは二の次かよ!!!ていうか、ていうか!!!

「子どもなんだから褒めてってストレートに訴えてくるは当たり前だろうがーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!アホか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

...と、心の中で盛大にちゃぶ台をひっくり返した私だった。

知識は人を救ってくれる。少なくとも私は、保育を学んでからうんと生きやすくなった。母親が何を考えて子育てしてきたのか分かるようになってきたし、自分の中の母親に対する不満に明確な理由付けができるようになったからだ。私の母親は、母親である前に一人の人間としての自分を尊重するタイプだった。だから、言い方がまずいかもしれないが、子どもの私にとっては"どこか足りない"母親だった。きっと物心つく前から私とお母さんは、1対1の別々の人間だったのだろう。

そういえば一度だけ、母が私を手放しで褒めてくれたことがあった。中学生のとき、国語のテストで100点をとったことだ。「ええ?!すごいじゃん!」と、私にとっての100点満点な褒め方をしてくれた。あれは、母にとって"100点はすごい"という意識があったからこそでた言葉だったのだ。...どこまでも自分に正直な人である。

おい、よく聞け。私は、嘘をつく母親になるぞ。すごいと思っていなくとも「そうなんだ。すごいね頑張ったね」くらい気の利いたことが言える、子どもにとって"都合のいい"母親になるぞ。同じ過ちは繰り返さない。褒めてとこられて褒めるのは恥ずかしい...なんてちゃんちゃらおかしい。ヘソで茶が沸かせる。絶対絶対子どもの気持ちを受け止める親になる。褒める親になる。ふざけんなよ、クソ、クソ!あー誠実さなんてクソだ!!!うちにある子育て関連の本全部捨てろ!!!燃やせ!!!!!!こんなもんなんの意味もないわ!!!(現に姉はメンタル脆弱ニートである)

もう一度言う。知識は人を救う。もれなく子ども時代の私も救う。けれど、だけどやっぱり、あの頃の私を受け止め、本当の意味で救えたのは、後にも先にもお母さんしかいなかったのだ。嘘をつかない誠実さなんかよりも、私はお母さんのたった一つの嘘に救われたかった。知識を得た今でもその想いからは逃れられないし、きっと一生、寂しさは続いていくのだろう。母と子とは、かくも呪いのような関係なのである。