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いつかは綺麗に笑いたい

こんなところでまで謙遜しても仕方ないので正直に述べるが、顔の作りだけで評価するとしたら、私はまぁまぁな上物である。

目がパッチリ大きくて、団子鼻はそこまで悪さをしていなくて、全体的に崩れたパーツがない。うまくいけば上の中には食い込めるくらいの整い方をしていると自負している。

しかし、これは顔面の作りだけの話である。

思春期の頃から自分の笑顔が大嫌いだった。目が細ーくオバサンみたいになって、口元なんてぐちゃっと歪んで歯が見えて。なんていうか、汚かった。喋る自分の表情を見るだけで(汚っ)と思っていた。口を閉じて笑ってもなんだか微妙。綺麗に笑える人が、ずっと羨ましかった。

SNSが流行し、顔面加工大国と化したこの日本において、今、若者たちに真に問われているもの。それはずばり、「綺麗な表情を作れるか」ということなのではないかと思う。

いくら肌を綺麗にしたって、エラを削って、小鼻を小さくしたって、表情は絶対に誤魔化すことが出来ない、と私は思う。美しく整えば整えるほどに、それに不釣り合いな醜い表情は浮き彫りになっていくのだ。人はそのギャップに、必ず違和感を覚えるように出来ている気がする。「綺麗だけど目が笑っていない」だとか「口が歪んでる」だとか、そういうのは皆すぐに分かってしまう。

つまり、SNS上で美しくなればなるほど、内面がそれに見合っているか評価されている。昨今の世の中ほど、心を丸裸にされる時代はないのである。

ちっぽけな画面の中で、歪な私が、蔑むようにこちらを見つめている。なんて汚くて、意地の悪そうな心なのだろう。

そう考えると、つくづく、親からもらった顔も過ぎていく若さも、何一つ財産にはならないのだと思い知らされる。それらはすべて、与えられたものでしかないからだ。

けれど、表情はちがう。表情は他人には作れない。私の表情は、私だけが作り出したものに他ならないのだ。

これから令和と共に人生を歩む私たち。表面を飾り立てることに必死になって、肝心の心を置き去りにしないように気をつけたい。

心はまっすぐに育てていこう。そしていつかは、優しい木洩れ日のような表情で、笑えるようになりたいと思う。