人間失格。日本人ならば読んだことが無くとも必ず聞いたことのある書名である。太宰治自らの内面を描き切った傑作だ。私はつい最近初めてこの本を読んだ。このnoteではその時の感想とごにょごにょ考えたことをつらつら書くことにする。 この本は徹底して人間の負の側面が描かれている。それは主人公にしても、周りの登場人物にしても、である。一応あらすじを...と思ったがまだ読んだことがない人にとってはネタバレの恐れもあるし、読んだことがある人には蛇足なので割愛する。さて、私は新潮文庫版を
『孤高の人』という、新田次郎の書いた小説がある。いわゆる山岳系小説で、加藤文太郎という実在の人物をモデルとした小説である。この小説、色々面白かったので、少し感想をば(以下ネタバレ注意)。 主人公である加藤文太郎は兵庫と鳥取のほぼ県境に位置する田舎町、兵庫の浜坂の生まれである。物語は文太郎が成長し、神戸の造船所の製図工見習いとして日々を過ごすことから始まる。造船所の友人から山歩きの仕方を教えてもらったことをきっかけに、文太郎は一気に山にのめり込むようになる。はじめ六甲山系
つい先日、それなりに有名な方とお話することができた。あまり書くと個人が特定されるので控えめにしておくが、大型書店で平積みがされているような方である。エッセイや小説など、多様なジャンルで活躍されている。私はその方に、自分もエッセイ?というかなんかよくわけのわからんもの(このnoteもそのひとつ)を書いているのだが、いまいちうまく書けない。どうしたらいいですか、そしてあなたは書く時に何を意識されていますか、という、とても大雑把な質問をなげかけた。すると、おおむね次のような答えが
ドゥルーズの『ニーチェと哲学』を読んだ。はじめてドゥルーズの著作を読んだのだが、かなり面白かった。私はドゥルーズ、及び彼がいた時代を食わず嫌いをしていたフシがあったのだが、食わず嫌いをしていたのがもったいないと思うほど良い本だった。 昔から政治的文脈におけるドゥルーズは擦られ続けてきたテーマであり、私が彼、及びその時代を食わず嫌いしていたのもここら辺の理由に寄るところが大きい。しかし、それらから距離を置いて、単に哲学書の著者、すなわち哲学者としての彼の本を読むと、シンプ
何かにつけてバランス感覚というのは重要らしい。私がここで述べようとするのは、畢竟すれば中庸という、洋の東西を問わず常に重視されてきたあの徳の話のひとつのバリエーションにすぎないわけであるが、それでも具体的にそのことを考えるのはなんらかの意義を有するであろうから、少しばかりあれこれ連ねてみようと思う。 バランス感覚とは、相反する、あるいは遠い距離にある価値観、思想などの一方に盲目的に傾倒することなく、常に視野を様々の選択肢に開かれた状態に保つことである。我々の生活において
光あるところには影があり、影あるところには光がある。 光とは明るさである。太陽である。あるいは月である。いずれにしても最初に闇があって次に照らすものとしての光がある、とされる。本当に?光あれ!が幻想だったとしたら?闇が影だとしたら?そして、光と影は同時に生まれるのではなく、影が先に生まれていたとしたら? 光は存在であり、存在者である。ここに存在論的差異は(今回は)無い。一方、無底の存在に光は無い、とされる。存在それ自体という底なし沼、それはもしかすると闇ではなく、影なのか
スタイルが固定化してしまう!文体もそうだし、何を書くかもそうだし、なにもかも、全部が、ひとつのものになってしまう。無限の可能性に開かれているはずの表現が!これは恐ろしいことだ……… 万城目学が直木賞を取ったらしい。『八月の御所グラウンド』。嬉しい。とても嬉しい。おめでとうございます。私は万城目作品が大好きだ。小学校くらいの頃から何度か「万城目読みたい期」が発生して、その度に何冊か読んで、大満足して、というのを繰り返している。今回の『八月の御所グラウンド』もそういう理由で
哲学者の全集を読んでいると、日記や草稿群に出会うことがしばしばある。先日は西田幾多郎の日記を読んでいた。彼の日記は、どこどこまで散歩しただとか、だれだれが家にやってきたとか、そういうことが箇条書きされてるにすぎない。そうはいっても、私は今京都に住んでいるので、登場する地名には馴染みのあるものも多い。そうすると、自然、あの場所でこんな風に散歩してたのかななどと妄想がふくらむ。こんなことを考えるのはオタクの性なのだろうか。いや、誰でもやることだと信じたいが…。ともかく、三木清が
私は今日で10代最後の日を終える。明日からは20代の私になる。だからなんだというわけではないが、しかし、だからこそ、今年一年をちょこっと振り返ってみようと思う。 私は今大学生である。大学生は基本的に勉強バイトサークル恋愛ラーメンからなる五行説に基づくという立場を私はとる。この五行説に従うなら、今年もやはり勉強が最も重きを占めた。なんやかんや学ぶことが一番面白い。幸か不幸か、もうすっかりそういう体になってしまった。今年新たに学んだことを列挙するとキリがないが、ひとつ言える
餃子でも、ラーメンでも、炒飯でも。なんでも良い。とりあえずテキトーに、その日の気分で。ありがたいことに、町中華は財布に優しい。野口が1枚(人)お亡くなりになりあそばすだけで済むことがほとんどだ。 何年この町と共に歩んできたのだろう。もしかすると私が産まれる前からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこにはどんな履歴があるのだろう。今僕が座ってる席に昨日は誰が座ったのだろう。10年前には誰が座ったのだろう。もしかするとまだ𝐵𝐼𝐺になる前の誰かが座っていたかもしれない
しっかり聴くことはしっかり見ることよりはるかに難しい。目は閉じれるけど、耳は閉じれない。だから、聴いてる気になってしまう。ちゃんと聴けてなんかいないのに。 最近はどうやったら自分のオカタイ書き言葉がやわらかくなるかということにこだわっている。ちなみに、今も「どうやったら」のところを無意識に「いかに」と書いていたので直した。オカタイ書き方をするのは簡単だ。漢字を増やせばいい。いや、より正確を期すならば、一文、あるいは全体における漢字の割合の増加を志向すると言うべきか。ほら
MOROHAを一言で表したら?と問われたら、私は迷わず「最強の弱者」と答える。MOROHAの歌詞には弱さを徹底的に見つめ、克服し、なんとしてでも強者たらんとするダイナミズムを描き切るという、全ての曲に通底するテーマがある。そこに私は「最強の弱者」としてのMOROHAを見出す。そこで、今回はMOROHAの歌詞を見つめることを通じて、この最強の弱者の本質に迫りつつ、MOROHAにおいてアフロとUKが各々演じる役割、さらに彼らから垣間見える人間のあるべき姿の一側面について述べるこ
同じ土俵で批判せよ!「見当違いの批判」はもはや批判という言葉の言語ゲームへの参加を許されるべきでない。 何かを批判する時、それは自分に返ってくる、などという道徳もどきより、(最大限可能な限り!)正しく批判するという道徳を重視しよう。 注意!批判は言論にこそ向けられるべきであって、人格に向けられてはならない。しかしここにアポリアが発生する。 言論は一部では人格である。個人から発せられた言葉は個人の人格を踏まえてこそ出てきたものであるだろう。 すると、我々は常に「人格に向
読書感想文というのはなぜか読書後感想文という形でしかかかれない。それやったら読書中感想文というのがあってもおもろいんちゃうか、というだけの理由で、井筒俊彦の『意識と本質』という随分オカタイ(?)本について感想を書き連ねていく。 井筒俊彦の著作ははじめて読むが、やはり「昭和的哲学者」の例に漏れず、(西洋の同時代の哲学者に比べて)論理的でない文章だなぁという印象を受ける。西田幾多郎や和辻哲郎などの文章は時として決定論的な、あるいはドグマティックな一節をはらんでいる印象を受け
1週間ほどドイツを旅していた。これを書いている今は台湾での乗り換えで日本行きの便を待っているところだ。現地時刻は朝8時、体内時計は深夜1時を指している。ということで、体内時計の深夜テンションに任せて旅に関していくつか。 旅の良否は場所と人で決まる。どちらかひとつでも心に残ればその旅は十分に良いものとなる。しかし、どちらも揃った時、それはある種特別な思い出として深く心に刻まれることになる。 今回のドイツ旅での「それ」はアイゼナハだった。この人口5万人に満たない小さな街
はじめに 「沈黙」という言葉は日常的に用いられる言葉であるが、哲学上においてもしばしば取り上げられてきた。また、「なぜ神は沈黙するか」という問いは信仰を持つ者にとってはしばしば重要な問いとなって姿をあらわした。そこで、本noteでは「沈黙とは何か」という(巨大な)問いをたて、これに対して複数の視点から論述を試み、最終的に一つの回答を提示する。その際、以下の順序で記述がなされる。まず、20世紀哲学の2大巨頭とも呼べるハイデガーとウィトゲンシュタインの記述を確認し、彼らの著作