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さいはひ  采配 幸い 

少し前、愛知県の碧南市にある美術館に行ったら、
振り替え休日だった。
エーーーってなって、困ったら、美術館の方が出てきて
何も悪くないのに平謝り。
こちらが申し訳なくなる。

ぽっかり空いた一日。
ずっと行きたかった本屋に出向いた。
そこで出会った本。


 

「火を焚きなさい」は
別の本の中で紹介されていて知っていた詩。
この詩のコトバに、かなりノックアウトされたのでしっかり覚えていたのだけど
本になっているとは知らなかった。
しかも、その本屋では最後の一冊。
見本になっていたため、少し手垢を感じたが、
「これに出会うために美術館はお休みだったのか」と思わせてくれた一コマだったから、人の手垢などどうでもよくなった。

そしてまた、ここでも「宮沢賢治」
ここでもというのは、
昨年からズーっと、何をするにしても宮沢賢治が付きまとい、
どこに行って誰かと話ししていても宮沢賢治の話になる。
友人に聞いたぐらいだ。
「今、何?  この日本は宮沢賢治ブームなの??」と。

ほんたうのさいはひは一体何だろう

宮沢賢治

購入した本の表紙に書かれている。
ほんたうのサイハヒ・幸いは何だろう、と。

この言葉、かなり響いた。

さいはい。


 

昨日、とある所に出かけた。
いろいろ学んできたのだが、
何か、何か、違和感なのだ。
紅葉が木の股に溜まっているように、「何か」拭えないものがある。
見え隠れしているコトは、「何か」であって言葉にすることができず、
私は一体、何を捉えているのだろうと気持ちが悪い。
色々と理由を探すのだが、
全て説明になるだけで核心の部分を捉えられない。

そんな時、前述の言葉が私の中で
サイハイ→幸い→采配へと変化した。
で、なんとなく認識した。
この部分には理由や核心などない。
この違和感。
なんだ、采配されているのか。

だから、私がわかろうとしなくても
全ての場を作っている部分がそのように動き、そのように進めば
ある形を成していく。
それを、ただ見ることを「在るがまま」と言うのだと。

 

違和感それは、相似的に起きてきてる。

例えば、
美術館に入れない日、
朝から、いつも混まないところで道路が混んで
なかなかスムーズに進まなかった。
もしかしたら2時間半もかけずに到達できたのかもしれない。
「今日はお休みだよ」という天の采配だったかのかもしれない。
でも、思考は
行きたかった本屋に行き、そのおかげでこの本に出会えた。
と思い込ませた。
そう思ったから、采配である違和を感じずにいたのかもしれない。

昨日感じた采配違和感に繋がった時、ふと、思った。
なんか不可解な感じ、似てるなぁ。
言葉にできないけど、
昨日感じた「何か変っ」っていう感じと
車がスムーズにいかなくて、「なんだ、これ」って思っていることと
さらに言えば、
年初の琵琶の演奏で、最初に響いた「愚かな人間どもよ」という文言を聴いた時の
「これは、なんだ」って感じたことと、
全部 似てる。

連なるナギ・粒子のような出来事は
連なってナミ・波動になる。
一連のことが何を私に伝えてくれているのか。
それを曖昧な、おのずさりのまま、形にせずに受け取る。
多分、ここには、理由も説明も意味も、何もないはずから。

サイハイというシステムの中の一連の出来事。
今、采配違和感を感じることで少し安心した。

賢治の
「ほんたうのさいはひは一体何だろう」を
「本当の采配とは一体なんだろう」と
そんなふうに読み換えてみたい。

はて
来週、美術館に再度行こうと私は思うのだろうか。
来週、美術館を訪れることができて
果たしてその時、美術館の扉は空いているだろうか 笑。

采配違和も
采配親和も
そのどちらも、
やはり
全て「ほんたうの采配」によるものに違いない。


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