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踊りのこと

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踊りについて考えたことや、見た舞台について
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#コラム

踊らなくても焦点を合わせよう、の日記

行き場のない気持ちになることが多い。 こういうことにずっと身を浸していると自分もひとを遠ざけるし、ひとも私に近づきたくなくなる。 今までどちらかといえば少なくとも表面的には楽観的に無邪気に過ごしてきたので、少なくとも自分が開こうとした時にはひとに受け入れられることが多かった。 でも、こういうふうに懐疑的で厭世的になってそれを長くながく続けてしまうと、排気ガスのようにそれが肌やわたしを包む空気を覆って、くすませて、触れたくないなという気持ちにさせてしまうことは良く知っている。

『Mnémosyne』 Josef Nadj

Josef Nadjを見にいった。 時間前にまず通された広い会場には、ナジさんが撮ったモノクロの写真が150点ほど飾ってある。 どれも、干からびたカエルのポートレートだ。 カエルはさまざまなポーズを取って、さまざまなものと写っている。 花とか、何かの部品のようなものに寄り添っていたり、ターンテーブルに載ってぐるぐる回されているものもあるし、なかなかにユーモラスで可愛らしい。 私は子供の頃、道端で自動車に轢かれてぺったんこになって干からびているカエルを見つけるとそのままにして

いらぬ心配、座り込んで考え込んで

毎週日曜日か火曜日には近くにひらかれるマルシェに行って一週間分の野菜と肉、魚を買ってくる。 魚は2枚におろして塩干し、野菜はビニールから出して紙に包み直して冷蔵庫、もしくは根菜は常温。 鶏肉は最近肉屋さんの鳥の捌き方をいくつか見て骨の抜き方を覚えた。動画のような穂先まで良く切れるように研ぎ直してないので少々苦労しながらも、手早く肉を解体できるようになった。 肉を解体しながら勢い余って左手の親指の爪を剥がす方向に曲げてしまってしばらく爪の中が青あざになって痛かった。 痛いのは

破裂の瞬間、Melody Cupのこと

書いておきたいような、でももうちょっと煮詰めないと書けないようなものごとがあって、じゃあしばらくはそのことをなんとなく頭の片隅に置きながら機会があればそこにちょっと立ち寄りながら普通に生活してみようか、普通に生活しながら気になる本を読んだりはっとするものごとに心を留めていればそのことがだんだん味付けされてくるかもしれない、とも思う、けれどそういうことをしているときっと私はこのことを忘れてしまうんだろう。 だからといって中途半端なことばにしかならないうちにそれを誰かが読めるかた