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過集中、足跡、ドライフラワー

自分の感覚を離れて「一般的なこと」について言及しようとすると、あらゆる言葉が喉のあたりで相殺されて、残らなくなってしまう。
画面を見つめたまま喉のあたりをさぐってなにか言えることはないかと探すが、キーボードの上で手を握ったりひらいたりするだけで何も打ち込めない。
こういう時には書き言葉より話す言葉のほうがまだ少しはましだ。意味や説明を重ねられるから。


夕飯を作ろうとすると焦りのような苛立ちのような気持ちに襲われることがある。
料理すること自体は嫌いではない。レシピを見ながらほんの少し工夫を入れたり、いつもより一品多くつくってみようかな、と考えたりするのも楽しい。けれど夕飯を作らなければならないと考えるだけでなぜかひどく気が重くなったり、もう昼を過ぎた頃から何にも集中できなくなることがある。
今はもうご飯を作ることがそんなに不得意ではないのに、不得意であった頃の気持ちを引きずっているのだろうか。

最近気づいたことのひとつに集中しすぎると時間が分からなくなるということがある。
例えばお皿を洗うにしても、ぐっとそれに集中しすぎると実際かかった時間はほんの10分ほどなのに、体感としては40分ほど過ごしたような感覚になる。
ご飯を作る時間は実際平均すれば1時間くらいのものなのに、そこに集中しすぎた時にはあまりにも長い時間それに費やしてしまったような気分になる。そしてぐったり疲れる。

子供の頃、おうちに帰りましょうの音楽が町中に流れて、みんなとバイバイして家にたどり着くと1時間も経っていることがよくあった。
遊んでいた公園から自宅までは5分の距離だ。
何をしていたの?友だちと5時にバイバイしなかったの?と問い詰められても自分でもどうしてだかわからない。真剣に答えを見つけようとするがやっぱりわからなくて黙ってしまう。

10分しか経ってなくても実際に40分ぶん、疲れるのだ。精神と時の部屋みたい(違う)。
タイマーとかかけてやるといいのかな。
集中と平常の行き来が下手だ。だから半日くらい時間がないと、ほんとうにやりたいことに手をつけられない。
困ったものだ。


ヒマラヤ山麓に住む羊飼いの女性のドキュメンタリー『ラダック 氷河の羊飼い』を見ている。
命綱もないまま杖だけで険しい岩山や氷河を踏み分けて道を選び、羊を移動させる。たったひとり羊と暮らして3ヶ月誰とも出会わない期間もあるのだと。
最初のカメラワークだけ、人物の最初のセリフを聞いただけでこの作品が好きだとわかる。
二本の杖だけを使ってところどころ凍った深い雪を分けゆく。その長い軌跡を後方からじっと映す。山の斜面を砂埃を立てながら羊が駆け下りる。手で打ったのであろう金属の椀を火にかけてお茶をいれる。なんという存在感のある手。
食い入るように画面を見つめてしまった。
懐かしいような悲しいような気持ちになる。私はこういう生活をする環境には生まれてこなかったが、いくら惹かれるからといって今からここに身を投じる気持ちもないのだ。それなのに勝手に今の生活と比べたりして。
遠い世界のようにかんじるけれど、おなじものを身のうちにもっていたい。


その直前にNetflixのドラマを見ていて全然頭に入ってこなかったので途中で見るのを諦め、このドキュメンタリーを見始めたのだった。
次々と変わるカメラワーク、安直な設定、派手に怒ったり暴れたり喜んだりする演出、目立つ部分ばかりに特化して削られた音楽。
そういうものを面白い、センスが良いと思う感覚は私にはわからないが、では逆に私が良いと思うような作品を、たとえばこの羊飼いの女性が雪景色を延々と踏むのを撮影されたようなものを、どれだけの人が良いと思うのだろうか。
私がひとまえで踊ろうとする人間じゃなかったら、こんなことはまったく気に留める必要のないことなのに。


ストレッチは相変わらず続いている。
三日坊主でおなじみの私にしては辛抱強いことである。
Twitterなどで動画を見てくださった方の感想を見つけては、しみじみと始めてよかったなあと思う。
そこには体が楽になったり柔らかくなった、というものや、体に対する意識の変化が書かれていて、私は、何か方法を教えたり自分がどこかに導くというよりは、なにかきっかけを落としてみたらそれぞれのひとがそれぞれの方法で色んな世界を広げてゆくのを見せてもらう、ということがとても好きなので、本当に嬉しい。
あんまり一般受けしそうにないこと始めちゃったけど大丈夫だったかな…という懸念も吹き払われてゆく。
私にはわたしの体との葛藤があったように、どんなひとにもその方それぞれ、体と自己とをなんとかすり合わせてきた時間を経てきていると思うので、私はそこには立ち入れないし立ち入るつもりがない。
わたしがどなたかの前で踊るときもほとんど同じだ。
私には知り得ない積み重ねをもったそれぞれのひと、それぞれのからだの前で、自分がなにかしらをする、ということ。


花は全部枯れてしまったけれど、いくつかはドライフラワーにした。
ドライフラワーが好きかどうか実はあまりよくわからないのだが、でもいつまでも花をくれた方のことを思い出せるからいい。
花をもらったあの瞬間、ほんとうに嬉しい、と香りをかいだ瞬間にからだが戻る。
鼻からいっぱいに空気を吸う。
手の中でそれは、かさ、と小さな音をたてる。

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