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内側と外側、レン・ハンの写真を見て

朝起きて雨が降っているとほっとする、今日は家でゆっくりしていいと思えるから。
とある友達が言った。
いつでも月が見える窓のことと一緒に、そのことばを思い出す。

色んなことを先延ばしにしているのはしんじつを知るのが怖いからだ。
口だけなら何だって言えるし、いくらだってまっとうみたいでいられる、
頭で考えられることは実はできるんだと、それをまるで疑いもなく信じていたけれど、じつはそんなことはまったくない。
いくらだって高い理想を語れるし、ちゃんと感じているようなフリができるし、いっぱしの分別もついているみたいでいられる。
動かなければ、飛び出してみなければ、いくらでもそのいつわりの世界にいられる。ただ自分はそれをまだ実行していないんだよ、という顔をすることができる。
とっくにそれが、錆ついてしまっていることに気づいていないだけかもしれないのに。

レン・ハンの写真展に行った。

アイウェイ・ウェイは彼の写真を
「詩的であり、悲しみである」
と言った。

レン・ハンの写真を目の前にしながら、胸がずっと引き絞られるような感覚になっていた。
モデルさんのひとりは彼の写真を「汚くて美しい」と言った。
汚い、ということについて、考え込んだ。
からだ、他人の体というものに敬意があるひとの写真だという気がした。
すぐ目の前に、生々しいまでにそこにあるけれど、自分がそれをおかすことはできないことを知っている。
写真を撮ることによって触れにいくことができても、そのからだはその体の持ち主のものだ。
そういう触れられなさ、からだは間違いなくそのひとのものだということを信じているから、あそこまで遠慮なく踏み込める。
写っているひとから何かを奪ったり、自分の手中にしたり、盗み取るようなことが一切なかった。

スーザン・ソンタグは「私たちは写真の中で大事なひとやものを代用所有する」と言った。
私は人を撮るということが全然できなかった。
ある人は私に「あなたは被写体を奪い取ることができない、だから人を撮れないのだ」と言った。「だからあなたが人を撮ろうとしている姿が、とてつもなく嫌い」と。

なんでそんなことを言われなければならないのか、と呆然としたけれど、その言葉は確かにしんじつを言い当てている。
わたしの中に問題として抱えていることを、きちんと見抜いている。
私は、私自身が写真を撮る行為の中にいつも、その瞬間だけ何かをかすめ取るような感触を覚えてしまう。
自分とそのひと/その瞬間の間にカメラが挟まるだけで、そこには全然別の意図が生まれる、そのことを疑問に感じずにいられない。
目の前にいるものとの関係のあいだに、「私の目が捉えたそのひと」を固定し、残り、のちのちその写真を私が、場合によっては誰かが見る。
それは、目の前で、なにもあいだにはさまずに、たえず変わる表情とか当たる光のかたちとかその発音とか、そういうものを見つめている以上に価値のあることなんだろうか?
そういう風に思うと、大事なものや瞬間にこそカメラを向けることがどうしてもできない。
からだと世界の間にカメラを挟むことによって、この瞬間を放棄しているような気持ちになる。
だから実際、わたしの写真よりいつも、ほんとうにそこにあった瞬間のほうがうんとうつくしい。

レン・ハンの写真に写っている人物たちは、一切自分を手放さないままそこに存在しているように見える。
あれほどときには激しい姿勢や、私的な姿であるにもかかわらず。
搾取もなければ、中途半端にふざけてもいない。
自意識の誇張もない。
彼らは、レン・ハンが作った画の中で真剣に遊んで、ときには何かを演じて、また撮影が終わると当たり前の自分に戻っていく。

なにかに似てるなと思ったら、そうだ、高嶺格さんの舞台を見た時の感覚だ。

こんなに確実で、不確かなもの。
ときどき、自分の手を見ても、それが自分のからだだとは思えないことがある。
考えたように動くし、触れれば触れられているような気がもちろんするけれど、実際よりちょっと遠くにあるような気がする。
それは私が不思議の国のアリス症候群だからなのかもしれない。
子供の頃から自分の身体が実際よりだいぶ大きいような気がしている。
踊ることで、このからだというかたまりが、全然手に負えないと思ったこともあるし、こんなにも細かくものを考えているのかと驚くこともある。
わたしとは離れたものであるかのように、色んなことを教えてくれた。

からだは、
からだを抱えて生きることは、
かなしみだし、よろこびだ。
レン・ハンの写真を見ながら、その繰り返しの叫びがつきささるようだった。


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