見出し画像

『Skid』(ヨーテボリバレエ/ダミアン・ジャレ振付)

ヨーテボリバレエの『skid』(ダミアン・ジャレ振付)を見た。
10㎡、34°に傾いた大きな滑り台が舞台。
衣装の膝や肘や足の裏には滑り止めがついていて、斜面で踊ることを可能にしている。

34°の床面で踊るのは観客が想像するよりはるかに大変だと思う。
照明を当てられると観客席はうんと暗いので姿勢によってはとても怖いと思う。(実際、客席に背を向けた状態からブリッヂをするような動きは、見ている私のほうがひやひやした)
滑らない靴によって(坂に対して)垂直に立つことができるのに、その床に対して垂直に重力がかかってはいない。身体感覚とその操作の間のズレが面白いだろうな、でもえらく大変だ…となりながら見る。

もし自分が踊っていなかったら普段から重力のことを考えることなどなかったかもしれない。
自分の体のパーツひとつひとつの重さのことをこんなに意識することはなかったかも。
例えば寝転びながらパソコンを打ったり文字を書いたりすると、筆の運びの方向がうまく操作できなくてペン先が行き過ぎてしまったり、いつもは感じない重みが手首にかかっているのを認識したりする。
そういうちいさいことにも、改めてもうひとつの手でその手首の重さを量り直してみたりして、肉の沈みと抵抗を皮膚に覚えさせる。

長野オリンピックで使われたスキーのジャンプ台に登ったことがあるが、あの最大傾斜角度が37°くらいだったと思う。
てっぺんから見下ろしてみたら、滑り出す場所以外の坂の途中がぜんぜん見えなかった。手すりをがっちり握ってどんなに身を乗り出してみても、崖の先、はるか下方に着地する場所が遠く見えるだけだった。ここを滑って飛んでゆく勇気が信じられない。夢に見そうに怖い。
34°といえばそれに迫る角度で、そんな場所で、いくら衣装に滑り止めがついているとはいえあれだけの動きをするなんて…ダンサーたちはすごかった。この頃のダンサーはサーカスの方たちのような身体能力を求められているようにも思うので、大変だ…。

印象的だった場面は、最初の、弛緩しているのに床に対してはしっかり重力をかけてゆっくり落ちてゆくからだがだんだん速く落ちるようになるシーン、なにか原生動物とか、例えば精子みたいな思考のない(と私たちが思っている)生物を見ているような気持ちになった。
「思考のない」とか「意識のない(または私とは違う意識形態)」のようなことをそこから感じたのは何故なんだろう?プレパラートの上で観察されるものみたいだから?斜めの真っ白な床が、無機的な実験室みたいだったから…?
平面が3次元以前のもののように見えたのかもしれない。
その2次元を破って最初に3次元が出現するようなシーン、今までは床に張り付きながら落ちたり回転したりしていた体のなかから、女性のダンサーが膝から骨盤、背中を床面から引き上げていって、弓なりに剥がれてくるシーンがあったのだけれどそれがすごく美しかった。
平面からはじめて観客側の空間に膨らんで展開してゆく動き。
リスクを孕んで、儚いようなのに、大地の根っこを踏み掴んでいるような、蝶の羽化を見ているような気持ちがした。
そのシーンをわたしはしばらく見ていたかった。
実際には、ダンサーは立ち切らないまま、螺旋状にまた床に崩れ落ち、斜面を滑り降りていった。
3分くらいかけて「立つ」ことをしていってくれたら、永遠みたいに感じたかもしれないのに。
平面で行われていたことが、ある点を境に立体になる、観客の感覚の中で急に次元が増えるあのシーンを、私だったらもっと焦点を当てて描くのにな。

全体的に時間の感覚が一定で、それによって空間の密度が弛緩したままの印象であった。
音楽もその密度の平坦さを助けていたかもしれない。(中間の音域あたりがぼやんと膨らんでただただ圧迫する…というような感じだったので、もしかしたら劇場の音響施設が原因かもしれないけれど)
とはいえ舞台作品で素晴らしい時間間隔を味わったものはこれまでわずかしかないので、高いハードルで観すぎなのかもしれないとも思ったりするが、舞台作品は時間の芸術でもあるのでそのことをゆるがせにはできない。舞台上ある空間も重力も時間も色彩も、全てが総合してひとつの景色をそこに作るのだから。
作品が出来た後にきちんと時間を取ってミリ単位で調整をしてゆけば見えてくることだと思うので、もしかしたらそういう部分に興味のない作り手が多いというだけなのかもしれない。
時間の操作次第で空間の密度も変わるのだから私個人としてはとても重要な過程だと思うのだけれど。

繭の中のシーンはもっと長く見ていたかった。
前述したように作品を通して動きの激しさやスピード感が一定であったが、せめてあの山場のシーンだけでも別の呼吸で見せてほしい気がした。
その瞬間に見せられているものに没入できないと観客は「ここで繭とはどういうことなのかな」と、意味なんかを求めようとしてしまうのだ。

終演後、出演者とタイ料理屋さんに行って、久しぶりに会えたことを喜ぶ。
12年前に日本で一緒にワークショップを受けたことで知り合ったダンサーなのだけれど、そのワークショップで知り合った友達はみんな、ちりぢりになってあちこちで活躍している。
私はせっかくフランスに来たもののなんだかぐずぐずしているので、私なりに自分の踊りを磨いたり深めたり作品をつくったりして、もうちょっと密に活動しなければいけないなと思う。

この環境を与えられたら、私は何をつくるかな。
どんな風に踊れるんだろう。
単に動きのアイデアだけじゃなくて、自分が付き合ってきた身体と重力の関係の延長上のものとして。
振付家の、これは重力と身体についての考察のひとつの帰結であるのだと思うのだけれど、彼はこの作品の中にそれをおおよそ注ぎきれたのだろうか。
ワイヤーや小道具を(ほとんど)使わずに45分間を身体だけで埋めたことのなかに込めたものが、私はちゃんと読み取れただろうか。

この作品はこれから世界のあちこちで発表されるという。
もしその中で作品に変化があるのなら、また見てみたいと思う。

ブログを読んでくださって、嬉しいです!頂いたサポートはこれからも考え続けたり、つくりつづけたりする基盤となるようなことにあてさせていただきます。