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一億円の鉛筆【ショートショート】

(あらすじ)うまく書けない人のために言葉を紡ぐ「ラブレター代筆屋」。彼のもとにはさまざまな依頼がやってくる。もともと腕がよかったわけではない。ひょんなことから変わった鉛筆を手に入れ、依頼人の素直な言葉を書けるようになったのだ。今日も彼の元には、本心を隠した依頼人が訪れる。

「月が、綺麗ですね」

夏目漱石は「I love you」をそう訳した。名言じゃないか。

かれこれ12時間、ぼくは机の上で手のひらの鉛筆を見つめている。ラブレターを書かなくてはならない。依頼人のラブレター、ぼくは”ラブレター代筆屋”だ。

代筆屋の仕事をしていると、「ロマンチストなんだろう」とか、「人の気持ちを汲み取るのがうまいはずだ」なんて言われる。それは誤解だ。まったくわからない。そして、恋人もいない。もっと言えば、40年ほど生きてきたのに自分のことすら把握できていないのだ。それなのに、他人のことなんてわかるはずがない。

ただ、この手のひらにある一本の鉛筆が、ぼくを代筆屋にした。夏目漱石が愛用していた鉛筆。あるオークションにて1億円で購入した。お金持ちにみえないかもしれないけれど、ある分野に長けていてお金は一生で使いきれないほど持っている。

最初は、ぼくだってこの鉛筆が本物かどうか疑っていた。鉛筆の端には筆記体で書かれた夏目漱石の名前が彫ってある。それでも見た目は普通の鉛筆。

けれど、ひとたび何かを書こうものなら、すばらしい文章が生まれてくる。ぼくの脳内が普段20パーセントの稼働率だとすると、この鉛筆を握ると120パーセントに引き上げられる。

夏目漱石の鉛筆だという確証はそれだけじゃない。この鉛筆に出会って、ぼくは誰かのために愛の言葉を紡ぎたくなった。そこで始めたのが、ラブレター代筆屋だった。

依頼がきたら、手紙を渡したい相手のことや、伝えたい想いなど、色々とヒアリングをさせてもらう。大抵の依頼はカジュアルなものが多い。大好きな人に告白する手紙、結婚記念日に渡す手紙、テレビ番組で使う芸能人の手紙。一人ひとりに会って話をきいて、巧みに言葉を紡いだ。

けれど、今回ばかりは頭を抱えている。まもなく死を迎える青年Aからの依頼だった。

A君とは、病室で出会った。大学生になったばかりだというのに白血病を患い、余命半年と宣告されていた。

「先生、手紙を書いてほしいんです」

彼は、暗い顔で言った。

「ぼくには幼馴染の女の子がいます。毎日お見舞いに来てくれる彼女です。きっと、ぼくの告白は重荷でしかないでしょう。でも伝えたいのです。きみのおかげで、ぼくは幸せだということを」

いつも笑顔を絶やさない女性だった。彼女は手紙を読んで喜ぶだろうか。悲しむだろうか。A君は彼女に前向きな気持ちで手紙を読んでもらいたいと話した。

ぼくには夏目漱石の鉛筆があるのだから、今まで通り巧みに書けばいい。ぼくにしか書けない手紙になる。彼はきっと満足するはずだ。

けれども、一言も書けなかった。彼の言葉が本心ではないような気がしたからだ。

ぼくはもう一度、A君のもとを訪れた。彼は数日前に会ったときより、病状が安定しているようだった。少し会話が弾んだあと、意を決して切り出した。

「A君、きみの本当の気持ちを聞かせてくれないか?」

A君は、眉尻を下げて困った顔をした。

「先生、たしかにぼくは本当の気持ちを伝えていません。でも、伝えたってどうしようもないじゃありませんか?」

「そんなことはないよ。伝えることは悪いことじゃない。それにぼくはラブレター代筆屋だ。彼女が救われるように書くことを約束する」

しばらく、沈黙が続いた。A君の眼から大粒の涙が流れる。

「…ぼくは、生きたい……。こんなところで死ねない。もっとやりたいことがいっぱいあるんだ。彼女と一緒に生きていきたいのに!」

かすれた声だが、彼は言葉は力強かった。

「なんで、ぼくばっかり……。何をしたっていうんだ。彼女が誰かと一緒になるなんて、考えるだけでも苦しい。ぼくを忘れる日が来るのがこわいんです。だから、ぼくをずっと覚えていてほしい……。覚えてもらうために手紙を書いてほしいんです」

それが、彼の本心だった。

「うん、わかった。A君。一緒に彼女に伝えよう」

その日、ぼくは満月を見上げながら、鉛筆を握った。長くなりすぎず、シンプルな言葉で書くつもりだ。

踊る鉛筆は、月の光で輝いていた。

(記:池田アユリ)

木曜日は、ショートショートを書いています。

ラブレター代筆屋の、小林慎太郎さんがモデルです。

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