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第194回 源光(みなもとのひかる) の巻

源光は宇多帝の叔父だったこともあり、宇多帝でも頭が上がらなかった人物だったようです。

過去に道真・時平の二人に対しボイコットをしかけた実績もあり、アンチ道真のリーダー的存在でした。

最終的に官位で時平・道真に抜かれてしまいますが完全に二人をなめていたようです。

私は個人的に道真追放の首謀は時平ではなく 

①藤原淑子(藤原摂関家のドン)
②源光

の二人が中心人物だったと推測しています。
(道真追放の目的は二人それぞれ違いましたが利害が一致しました)

一般的にこの二人は「誰?」ってことになるので、わかりやすい表舞台の権力者・左大臣藤原時平が首謀とされたのだと思います。たしかに時平は道真追放を黙認しているので「白なのに黒」です

源光が道真追放の首謀と推測する根拠は・・・
(藤原淑子の話は何度も書いているので割愛)

①道真左遷の勅令文に「次の右大臣は源光」とわざわざバイネームで書かれている

道真に対する勅令文なので道真本人がこれを読むことが前提です。
左遷命令なのにわざわざ勅令内容に関係ない次の人事をバイネームで書きこみ、道真に見せつけているようにしか思えません(陰湿だ・・・)。

②名指しではめったに他人を批判しない道真が『菅家後集』で、ほぼ名指しで源光を批判している

つまり、道真は今回の追放劇の首謀を源光と認識していたと思われます。その他は特定の人物を批判している文章はありません。
(醍醐帝に対しての文面もありますが微妙にニュアンスが違います)

私の後釜で誰が ’数合わせ’ の右大臣やるの?『菅家後集』より

 道真は右大臣在職中に3度も辞職願を出していますがその主な理由は「他の貴族からの批判・嫌がらせ」でした。

道真に嫌がらせできる立場の人間はごくごく少数に限られており、過去の実績なども考えると源光が道真に辞職願を出させるほどの嫌がらせを続けていたと推測できます。

一方で、源光は非常に優秀な政治家であったと大絶賛する学者さんの論文もあります。ただ、時平・道真と同等の官職(大納言)だった3トップ時代でも圧倒的にふたりに仕事量は劣っていたようです(まあ、時平・道真と比べられるとつらいところはあるでしょうが…)。


時平の死を受け、源光政権が誕生します。

ついに源光が天下をとりました。
しかし左大臣に昇格することなく右大臣のまま政権トップとなった点を見ると、バックで人事を操る宇多法皇の源光に対する評価を象徴しているようです。

その後、光は鷹狩に出かけたまま行方不明となります。

「底なし沼に馬ごとハマって死亡した」とされますが目撃者がいたわけでもなく沼から遺体もあがらなかったようで、完全な不審死です。

ただ、光が行方不明になってから数日内の宇多法皇の行動を見ると不審な点もあり、さまざまな憶測もあります。またそれはいつか別の機会に。

石ノ森章太郎『日本の歴史9』 源光の場面


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