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人って変わるよね。

これは私の話ではなく、両親と祖母の話なのですが

母は結婚してから看護士を辞めて専業家庭主婦をしていました。
父はサラリーマンをしていました。

それが二十年以上経った今、母は仕事をメインにしていて、父がカップラーメンの炒め物くらいしか出来なかったのが、色々少し手の込んだ料理をするなど、家事をする様にもなっています。

人が変わる周期ってどれくらいなんだろう?

きっとそれは刻一刻と蓄積された変化によって自身が変わっていっているものなのでしょう。

行動は習慣化し、習慣は生活になり、生活は人生になる。

自分よりも長い年月を生きている人間をみているととても不思議に思う事があります。変化を求めない人間と、変化ばかりを求める人間がいる事です。

例えば私のおばぁちゃんはあまり変化を求めなかった人間です。変化があまりない環境にいたとも言えます。

ある日私のおばぁちゃんがつけていた日記がぽつんと置いてあり、それを少しばかり好奇心に負けて見てしまった事があります。

おばぁちゃんはマメな人で田舎の方に住んでいましたが、ネット等に触れる機会も無かったので生活圏は結構小さかったのだと思います。毎日の日記にあまり変化があるようには感じませんでした。おばぁちゃんは結婚してから多分ずっと家庭主婦でした。

そんなおじぃちゃんとおばぁちゃんの関係性に私は男は一人で社会の荒波に揉まれながら女を強風から守り、女は一人家族の子守をし、家事を切り盛りしながら家庭を支える。という構図が容易に頭の中に浮かびました。

今の家庭は比較的共働きが多くなってきていますから、家族のあり方や形態も昔とは随分違っているのだと、これもまた人は変わる、社会の価値観も変わっていく。という事に繋がっている様に思います。

小さい頃からの印象として、とても怖くて厳しい印象を持っていたおばぁちゃんですが、おばぁちゃんのつけていた日記を通してとても一途で純朴な方だったのだなぁと思いました。私にとってはおばぁちゃんでも、この世からすると一人の人間として存在しているのだなぁ、と妙に第一人称で書かれていた日記に違和感を感じたのを覚えています。全く別人の一面を知った気分になりました。

これはおばぁちゃん自身が大きく変わったのではなく、私が知っているおばぁちゃんではない面をみつけた事によって私がおばぁちゃんに対する印象が変わったという事になり、これも人が変わったの一種だと思っています。


そんな風に突き詰めて考えていくと、案外人が変わる瞬間やタイミングというのは特に無くて、自分から何か行動を変えて何かを始めないと変わらないものなのだと思います。逆に言えば、いつでも行動を変えてしまえば人は変わった、変わっていっているという事になります。

一番簡単な例で言うと私は「老い」だと思います。

何もしていなくても時間は過ぎていき、人は年を取っていく。

極々稀に、腐れ縁で半年ぶりや数年ぶりに会う同級生が数人います。毎回会う度に仕事が変わっていたり、付き合っている人が変わっていたり、家族の構成が変わっていたりします。

それでも一人の人として、変化を感じる人とあまり変化を感じない人がいます。それが良いのか悪いのか、判断は難しい時もあります。皆それぞれ自分が歩む人生なのだから、正解や不正解は無い筈なのですが、それでも嫌だなぁ、と感じる時があるのはきっと価値観にズレが生じた時です。

大人になって思います。成長に年齢なんて本当に関係の無いことなんだと。誰の背中を見て育ってきたのか、育ちたいのか、今の時代は容易に色んな方々を知る機会があります。これも変わるにおいての選択なのだなぁと深く思います。

時代によって価値観がころころ変わるように、人も容易に社会に転がされているのだと思うと少しばかり悲しくなる時があります。

伸るか反るか、結局皆自分本位の自己責任で生きているのだから、どう変わるのかは自由だし、どこにいて何をするのかも自由です。

それを分かっているからこそ、改めて良縁して下さった、下さっている全ての方々に感謝の気持ちを。


好ければよろしくお願いします・*