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『月と毛布』


0時を少し過ぎたところで、枕もとの携帯の振動で目を覚ました。

表示された名前を見てすぐに起き上がってしまったのは以前の癖かと、瞬間、軽く目を閉じた。
いつもこうして、彼女からの突然の呼び出しにこたえてきたのを思い出す。

隣で一緒に起き上がろうとした妻に、仕事の呼び出しだと声をかけ、側にあったジャケットをつかんで家を出た。通りまで出て運よくタクシーをひろうと、公園へ向かった。
  
一つ二つさかのぼった季節、最後に彼女に会ったときには雨が降っていた、あの公園へ。
ブランコと滑り台があるだけの小さな公園は、いつかの散歩で見つけた彼女のお気に入りの場所だ。

冬のはじまりの透明な空気のなか、鈍く銀色に光る滑り台のてっぺんに、彼女はいた。

ゆっくり歩いていき、滑り台の下から彼女を見上げる。
 
「満月よ……」
 
ひとことだけ呟いてまっすぐ空を見上げている彼女の先には、明るい月がたしかにあった。

「月光浴か。あいつと一緒に眺めてればいいじゃないか」
「だって。ケンカしてるのよ、いま」
「あいつとは始まったばかりだろう。ケンカのたびにオレを呼び出すつもりじゃないだろうな」

彼女を逃がしたのは私だ。
好きだったから。
でも、何も求めない彼女と会い続けることで、何も見ないで生きるのと同じような気分になった。何も与えてあげられない自分の立場を呪うかわりに、彼女の手を離してしまった。
あのとき、私は何を選べばよかったのだろう。何を選べたんだろう。

  

月がちらちらと揺れながら、光が強くなったり弱くなったりするのは何故だろう。空はいつもいろいろな表情を見せる。
冷たい冬の風がため息のように過ぎていき、木々の残り少ない葉が最後の力をなくして落ちていく音を、ふたりで聴いた。
地面からは、むき出しの土の匂いがしていた。

すぐ横に自動販売機を見つけて、缶のコーヒーをふたつ買った。
手を伸ばして、滑り台の上の彼女にひとつ差し出す。
  
「あったかい……」
  
囁くような声を聞いて、あの日を思い出した。細く雨の降っていた、彼女との最後の日を。

自由になりたいと、小さな声で彼女は言ったのだ。
それが彼女が私に求めた初めての、唯一のものだった。
捕らえているつもりはなかったのに。ただ一緒に過ごしていたかっただけだったのに。現実を忘れて。

何も求めないことで彼女は、自分から縛られてしまっていたのかもしれない。
ただ一緒にいたかっただけで私は、何も見ずに、彼女を閉じ込めていたのかもしれない。

だから彼女を、小鳥を放すように自由にした。
思っていた以上にその様子が彼女に似合っていて、私はひどく哀しかった。
現実は少しずつ溶け出して、私と彼女の足もとを濡らした。
空っぽの鳥かごに、自分が入ってしまいたいと思いながら、私はそれからの日々を過ごしてきた。

  

「降りてきたら?」
「ここがいい。 ここが好きなのよ」
 
「ここからだって月はよく見えるよ」
「うん。いつでもすぐに降りていけるから。まだここにいる」
  
「そうか」

たった十段ほどの階段がついた滑り台のてっぺんは、それでも限りなく、あの冷たい月に近かった。

滑り台の柱に寄りかかりながら、急いで冷めていくコーヒーの缶を握りしめ、彼女と同じ空を見上げているのは不思議な気分だった。
いなくてもいい場所にいる自分を、自由だとも思えた。
そして、自由にしてやった彼女を、今は、以前よりもっと愛おしく近く感じていた。
一瞬でも本気で愛したことがあるのかと聞いた彼女の言葉が、まだ心のどこかに、木の葉がぶら下がるように浮かんではいるけれど。

何かを捨てなければ、大事なものは手に入らないのだろうか。
何かを手放さずにいれば、どんな情熱も半分でしかなくなるのだろうか。
本気で愛するとは、純粋な気持ちを保つこととは違う何かだったというのか。

  

月がまた、ゆうらり揺れたのと、彼女の携帯電話が鳴ったのとほぼ同時だった。

「……彼、ここに来るって」
「うん。よかったな。じゃあ、行くよ」
「あなたと一緒にこの月が見られてよかった」
「ああ」
「コーヒーも」
「うん」
 
「今夜は雨も降ってないしね……」
  
彼女の心につかの間触れてしまった気がして、私はそのまま何も言わずに公園を出た。

  

入れ違いに入ってきた男は、滑り台の上にいる彼女を見つけると走り出し、階段を軽々と上がって彼女の隣にストン、と、腰をおろした。

大通りに出る前にもう一度振り返ると、
滑り台を笑いながら滑り降りる彼女の後ろ姿が、月に照らされて光るのが見えた。

そのまま、背中の翼で空に舞い上がるのが見えたらと怖くて、私はあわてて目を伏せ、くるりと向きを変えた。

  
この時間、うまくタクシーがつかまるだろうか。
白い息を吐いて、ジャケットの襟を立てる。

家を出るときに起こしてしまった妻は、きっと待っているに違いない。
私は、さっきまでくるまっていた毛布の温かさを、少しでも強く思い出そうとしていた。
(Photoback本 改訂版)

  

  

  

  

  

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