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バケツにあけた小さな穴(-6日)

26年間、今までの人生で本気で怒ったことって一度もないかもしれない。

いろんな思い出を振り返ってみて、わたしの記憶の中に、自分が憤怒している記憶が著しく少ない、というかむしろゼロなのではないか、ということに気づいた。


怒りも不満も心のバケツに溜め込む性分なので、それが溢れないように用心してコントロールして生きてきただけかもしれないけど。


誰かに対して怒りをぶつけるのってとんでもなくエネルギーがいることで、
私はそのエネルギーを使うと、とってもくたくたになる。
そして心晴れるどころか、幼稚な怒りを自分で消化できずにぶつけてしまった…と、懺悔することになる。

それに、バケツがいっぱいになったら、私は怒り方を忘れて、水がドバッと溢れかえるように泣いてしまう。
泣きたくないのに涙が溢れる。

たぶん私は怒りという感情に適合していない。


仲良くしてた子から急にいじめられたときも。
その子がいじめられる立場になって、手のひらを返したように私とまた友達になろう、と言い寄ってきたときも。
同級生から告白されて断って、もっと真摯に向き合えば良かったと思っていた次の日に別の子にも告白してたと知った時も。
好きだとか会いたいとか、そんな言葉をくれたのに連絡が返ってこなくなったあの人のことも。
私や兄を置いて別の人と家族になる選択をした父のことも。

私はそれら全てに対して、怒りの感情を抱かなかった。
あぁ、そういう人だったんだ。私はその人の本質を見抜けなかったんだ。
そんな風に思う。
あの時私はたしかにその人と友達だった。好きだった。大切だった。
それは変わらないことだし、それが続かなかった、というだけ。
私は選ばれなかった、というだけの話。


そんな感じで、仲違いになった人たちに対して怒るどころか、嫌いになることもなかった。
ほんの少しだとしても、私にとって良い思い出の一部になってくれてありがとう、という気持ち。
仕方ないよね、なんて言葉であっさりと諦めて適応したフリをしてしまう自分のことを、我ながらなんとも冷たい人間だ、とも思ってしまう。

自分が怒りという感情を吐き出さないからか、
怒りをぶつけられたことも数えるほどしかない。(自慢じゃないけど、他人の顔色を伺うのは幼い頃から得意だ)

他人が怒っているのを見るだけで、どっと疲れるから、怒りという感情は嫌いだ。
でも、それだけ感情を表に出せる人のこと、
ちょっぴり羨ましく思う。
自由でいいなぁ、と思ってしまう。


私はいつも余計なことばかり考えてしまうし、自分のことでさえどこか他人事みたいに捉えてしまう節がある。
だから私は、私のために怒れない。
私のために怒る方法を知らないのだ。




友人は私のことを優しいと言ってくれるけど、
優しいんじゃなくて、何にも期待してないだけだったりする。
必要以上に干渉しないし、いつも一歩後ろに下がって物事をみてる。
だから、友人が悩んでたら、責任が及ばない客観的な言葉を簡単に吐き出せる。
私はなんにも優しくない。
友人に対しても、親身なようでいつもどこか他人事。
手だけぎゅっと繋いで、内側に入らず心の外側から見ているだけの卑怯な存在。


でもこんな生き方しか知らない。
こんな接し方しか私は知らないのだ。

だから私は怒れない。

この卑怯さを隠してるし、誰かの心に踏み込むこともしないから、何かに対して怒る理由も権利も私にはない。


いらいらすることはあるけど、憤怒はない。
ストレスは存在するけど、ストレスを自認してない。
卑怯な私はいくつもの仮面を使いこなして生きている。本当の自分が何者かに壊されることを恐れて。
案外、私は自分にとって都合が良いように、心のバケツをコントロールできているのかもしれない。
溢れかえらないように小さな穴をあけてやり過ごしてるのかも。

自分を守るために、その卑怯さを使いこなしてるのなら、
こういう生き方も、案外悪くないのかも。

でも、いつか、
そのとんでもないエネルギーを費やして、
その卑怯さを投げ捨てて、
ちゃんと自分のために怒れる人になれたらいいな。



大好きないちじくを巡る休日。
お気に入りのティラミストーストは今年も美味しい◎

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