感謝はガソリン。恨みはニトログリセリン。

SNSでは、なにかと感謝でしめくくる人が多い。
よくもまあ、そんなに感謝することが多いもんだ、と感心してしまう。
感謝が活力となって、生きているように見える。

私は、感謝することなんか、数えるほどだ。
私の感謝に対する不感症が問題なのか、はたまた、本当に感謝すべきことにめぐりあっていないのか、考え込むところだ。

そんなとき、同時に考えるのは、では、私は何を活力にして生きているのか、ということだ。
で、分かったのは、恨みだということだ。かっこよく、怨恨だといってもいい。

感謝パワーで生きるのと、怨恨パワーで生きるのとでは、どう違うだろうか。

思うに、前者では細く長い人生を送ることができ、後者では太く短い人生を送ることになるのではないか、と。
考え見てほしい。感謝とは日常によくあり、一つ一つが小さい。つまり、感謝から得られるパワーは継続的であるが、燃料としては爆発力が小さい。それに対して、怨恨とは日常にそんなにないが、ひとたび発生すれば、とんでもなく大きい。つまり、怨恨パワーは突発的であるが、爆発力が大きい。例えれば、感謝はガソリン、怨恨はレーシングカーでここ一番の加速で使用されるニトログリセリンといえよう。

幸か不幸か、私は記憶力がいいために、この怨恨というのを忘れることができず、抱えて生きている。しかも、増加一方である。
つまり、常時、ニトログリセリンを燃焼させて生きているのだ。これの欠点は、何事も疾走することになる、ということだ。カーブでは曲がり切れずそのまま突っ込むことになる。太く短い人生になる、といった理由がここにある。

怨恨パワーで生きる人、じつは多いと思うんだがなあ。