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映画『チタン』にみる「性」

ごきげんよう。雨宮はなです。
試写会で観た『チタン』は私には刺さらなかったものの、あれこれ考えるのが楽しい作品で分量が増えたため分けて投稿することにしました。
今回は第二回「性」についてです。

※この記事は映画『チタン』公式による「完全解析ページ」を閲覧せずに書いたものです。
※ここから先はネタバレを含みますので、ご了承いただける方のみ読み進めてください。
※残虐なシーンや性的な描写について扱っています。苦手な人はご遠慮ください。

「性」の意味

ひとことに「性」といっても表すのは様々にあって、少し考えただけでも「性」別、「性」格、「性」交が挙げられます。そして、『チタン』はこれら全てをカバーしている作品だといえるでしょう。
コトバンクにおける「性」の欄にはこのような記述がありました。

とくに人間について抽象的に一括したことばがセクシュアリティsexuality(性的総体)であって、人間対人間の性に関するすべてに含まれる特性、能力、行動、態度、傾向、心理、感覚、生理的衝動、性的魅力をさす。つまり、セクシュアリティとは、性を生物学的な性器や性行動のほかにも、人間の性に関する心理・社会的な面をも含めてとらえ、感情・思想・行動などすべてに関連している複雑な潜在能力として、社会から影響を受けながら、社会にも影響を与えるものである。

コトバンク

「まさしく『チタン』じゃん」と思いました。
チタンと書いて「性」と読む、とするならば主人公に埋め込まれたチタンプレートは「性」を外部から埋め込まれたというとらえ方ができます。

「性」交

①車とのセックスシーン

前情報を得て楽しみにしていたものの一つが、車とのセックスシーンでした。しかし、これは私に全く刺さりませんでした。車「と」というより、車「で」という印象だったのです。「with」じゃなくて「by」?

シャワーを浴びていた主人公が引き寄せられるように全裸のままガレージに行くとそこにあったのは一台の車。そのままセックスシーンにつながるのですが、主人公は車内でシートベルトに両腕を拘束されていて車は激しく振動します。

描写としてはそれだけ。
「なぁんだ」と思ってしまいました。アダルトビデオよろしく行為をすることを期待したのではありません。ですが、私にとってそれはただのレイプシーンにしか見えず、主人公設定の「車に対する異常な執着心」を感じられなかったのです。さらに、そのシーンよりも印象的なシーンが多すぎて「車とのセックス」という異常な行動はだいぶ霞んでしまいました。

それはその後の物語が大切だということを考えれば正しいのでしょう。ただ、どちらかというと「車への執着」ではなく「金属への偏執」があるというほうが正しいように思えました。この後の”「性」別”で触れますが、車を男「性」とするのであればチタンプレートが「性」を表すものであるという考えはあながち間違いではないかもしれません。

②ダンスが性交の暗喩だとするならば

『チタン』にはダンスシーンが何度か見受けられます。主人公はもともとゴーゴーダンサーで、仕事としてセクシーなダンスを披露するシーンがありました。その後、主人公とヴァンサンが「マカレナ」で踊ったり、消防士たちに囃し立てられた主人公が消防車に上ってゴーゴーダンスをして仲間をドン引きさせてしまうシーンもあります。

日本の古典文学でいう「男女が朝を迎えたらセックスをしたということ」だったり、ボリウッド映画のダンスシーンは「ラブシーンの健全な表現」だったりします。同じように『チタン』におけるダンスシーンはセックスにまつわるシーンだと考えてもよさそうだと私は思いました。

車とのセックスシーンや同僚とのペッティングシーンがあるんだからそんなわけないだろうとも思ったのですが、それらには相手を慮る行動が見られないことから、ダンスシーンはひとりの人間として性交をもっている状態を表現しているのではないかと考えたのです。
ただ、もしそうなのだとしたら、ヴァンサンとのダンスや同僚にゴーゴーダンスを披露するシーンはまた違った意味で衝撃的だということになります。

「性」別

車とのセックスシーンで「ああ、これはただのレイプシーンだ。車=男性なんて、よくある暗喩だもの」と、私は興奮から覚めてしましました。車とセックスして妊娠してしまうという設定ですでに、車が男性性なのはわかります。ですが、車への異常な執着心がどのように主人公に作用するのか、主人公はどのような気持ちを抱いて接するのかを楽しみにしていた私は非常にがっかりしてしまったのです。そう、精神的な「性」を感じられると思ったからこそ興味を持ったのでした。

ここからは、あくまで心理学的な表現で「男性的」「女性的」と認識しながら鑑賞しています。男性だの女性だのを語るのは現代において非常に困難なので、あらかじめその様に提示します。また、「心理学的な表現」としましたが、私はプロでも専門的な学習を修めた人間でもありません。あしからず。
さて、私が最も精神的な「性」を感じたのは次の2つでした。

①主人公の口元の髭がアップで写されたシーン

主人公が妊婦だとバレた後、ヴァンサンが「お前は俺の息子だ」と声をかけ、髭剃りムースを縫って口の周りを剃るシーンがあります。そのしばらく後、主人公の口元がアップになり髭がうっすら生えているのを確認できます。

これは非常に印象的なシーンでした。女性の体であっても口の周りに産毛が生えることはあります。ですが、写されたのは産毛ではなく髭と呼べるものでした。私は主人公の髭を見て、ヴァンサンが息子を作ることに成功したことと、主人公が男性という性別を受け入れたように感じました。

②ヴァンサンが主人公から「出てきたもの」を抱きしめたシーン

出産シーンが終わり、動かなくなった主人公から「出てきたもの」は人間の赤ん坊とは少し違ったいで立ちのように見えました。はっきりくっきりは写さないものの、写さないことで「写せない」んだと認識しました。男か女かもわからない、人間のような「出てきたもの」。

それを抱きしめるヴァンサンに母性を感じました。取り上げるまでは父性だったのでしょう。ですが、「何があっても子供を守る」という精神構造は母性に基づくと考えられ、また、子供を認識するということはその成長=時間経過を受け入れることでもあります。薬品に頼りながら老いに逆らっていたヴァンサンがそれを止め、現在の自分を認めた瞬間でもあるといえるでしょう。

「いつまでも男として現役である」ことに固執していたのをわかってはいるものの、「若さという魅力を保とうとする」のは非常に女性的だと感じられました。ヴァンサンが”母になる”ことでそれらを手放したように見えたのです。そしてそれは、人間であれば男女に関係なく起こるのだとも感じました。

さいごに

ありとあらゆるシーンや表現に「性」を感じずにはいられず、専門知識を持った人がこの映画を観たら一冊本が書けてしまいそうだと感じました「性」「映画」「心理学」「脳科学」あたりの専門家の方にいち単元ずつ担当してもらい、最後に対談があれば完璧です。読んでみたい…。

次回はこの作品において「生」についてあれこれ考えたことを投稿します。

最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。


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